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岩津天神 投稿者:ファーマー 投稿日:2024/01/17(Wed) 06:15 No.31925
岩津天満宮へ合格祈願

昨日、岡崎の「岩津天満宮」へ孫の高校受験の合格祈願に行ってきました。
昨年も出掛けましたが、我が家から岡崎はそれほど遠くではありませんが、岩津天満宮付近の道路は狭いですから、高齢者にとって、運転の難しい所です。

高校時代に菅原道真のことは勉強していましたから、なんとなく親近感はありますね。

牛の姿が目立ち、梅も開花の準備を始めていました。

「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」

この歌もいい歌だと思います。
光龍氏さんのご意見も伺いたいですね。

添付:31925.jpg (1272KB)
返信: 岩津天神 - 光龍氏 2024/01/17(Wed) 18:34 No.31926
ファーマーさん

なぜ菅原道真公が「学問の神」として祀られることになったかについて復習します。

道真は承和12(845)年に、代々続く学問の家系である菅原氏(是善の三男、兄2人は夭死)に生まれ、幼時から父に漢籍・和歌等を教えられ、11歳で初めて漢詩を詠んだ。
18歳で文章生となり、23歳で文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下・下野権少掾に叙任される。以後順調に昇進し、元慶元(877)年式部少輔次いで世職である文章博士を兼任する。元慶4(880)年)父・是善の没後は、私塾である菅家廊下を主宰、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。

宇多天皇の近臣として蔵人頭となり寛平5(893)年には参議兼式部大輔に任ぜられて公卿に列し、敦仁親王(醍醐天皇)の立太子に伴い、道真は春宮亮を兼ねている。
宇多朝末の寛平9(897)年に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官の長となる体制となる。

寛平9(897)年醍醐天皇が即位されると、右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べた。昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、間もなく大宰員外帥に左遷された。時平の讒言によるとされるが、時平は文章家としての道真を高く評価していたから、道真の失脚は、単に時平の陰謀によるものではなく、道真に反感(やっかみ)を持っていた多くの貴族層の同意があって醍醐天皇もそうせざるをえなかったともいう。
「東風吹ふかば……」の歌は、都を離れるとき庭の梅に詠みかけたものである。

左遷され大宰府浄妙院で謹慎していたが、2年後の延喜3(903)年2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。刑死ではないが、衣食住もままならず窮死に追い込まれたわけであり、緩慢な死罪に等しい。

延喜6(906)年冬、道真の嫡子高視は赦免され、大学頭に復帰している。その後、延喜8(908)年に藤原菅根が病死し、延喜9(909)年に藤原時平が39歳で病死した。これらは後に道真の怨霊によるものだとされる。延喜23年には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨御した。『日本紀略』はこれを道真の恨みがなしたものだとしている。この年、道真は従二位大宰員外帥から右大臣に復され、正二位を贈られた名目上復権した。

さらに延長8(930)年、朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これも道真の怨霊が原因とされ、天暦元(947)年に北野天満宮において神として祀られるようになった。その後、太宰府天満宮などが次々建立され、現在道真を祀る神社は全国約11800社にもなるといわれている。(特に学問の神として信仰されているが、他の御利益もある)

一条天皇の時代には道真の神格化が更に進み、正暦4(993)年6月28日には贈正一位左大臣、同年閏10月20日には太政大臣が贈られた。

*岩津天満宮が長沢から一番近い天神様ですもの、小生も息子・娘の受験時に参拝しました。お孫さんの合格をお祈りします。


返信: 岩津天神 - ファーマー 2024/01/17(Wed) 20:31 No.31927
光龍氏さん

いろいろ 教えていただき、ありがとうございました。

昔は、いろんなことを学んでも、かなりのことを覚えることができました。 残念ながら、最近は今朝学んでも 夕には忘れてしまう始末です。
ですから、余り学ばないことにしました。

岩津天満宮で御祈祷をした時、6組一緒でした。
小生夫婦だけでなく、大勢の方々が正座不能でした。

高齢になると、大半の方が正座できなくなるのだと実感しました。
(御祈祷の時は、少しヒケメを感じますが・・・)


返信: 岩津天神 - 光龍氏 2024/01/18(Thu) 17:27 No.31928
追加:天満宮と牛

どの天満宮にも境内に沢山の牛の像があります。その由来は、丑年に菅公が生誕したという説なっど六説ほどあります。
その中で、小生は「菅公が死去され、墓を築いて葬らんとして御遺骸を轜車(ジュシャ・牛車)でお運びする途中、車を曳く牛が座り込んで動かなくなった。従者達は「ここに埋葬せよ」との告知であろうと、この地に墓所を造った。そこが安楽寺であり、今の太宰府天満宮である。」との説に賛成です。
なぜなら天神社の牛の像は殆ど座り込んでいる「臥牛」だからです。

他にも神社には、動物の像がありますね。@稲荷神社=キツネ、A春日大社=シカ、B 日吉神社=サル、C熊野神社=カラス、D岡崎神社(京都市左京区)=ウサギ、E多くの神社=狛犬(こまいぬ)、などです。これは、神社を守る警備役、 神さまのお使い役(神使・しんし)なのだそうです。神使は撫でると夢を叶えてくれるとも言われています。


返信: 岩津天神 - ファーマー 2024/01/19(Fri) 05:25 No.31929
光龍氏さん

「牛の像」の解説 ありがとうございました。

菅原道真と梅の話は承知していましたが、天満宮と牛の像については、全く無知でした。

岩津天満宮にも牛の像が沢山いて、当然なんですね。

牛の鼻は、撫でられてツルツルになっていました。
多くの方が、夢を叶えてもらったのでしょうね。


返信: 岩津天神 - 光龍氏 2024/01/19(Fri) 23:23 No.31930
再追加:「東風吹かば……」の歌について。

「東風(こち)吹かば 匂(にほ)ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」の歌ですが、勅撰集の『拾遺集』(1006)や『大鏡』では第五句が「春を忘るな」となっているのですが、『太平記』『十訓抄』『古今著聞集』では「春な忘れそ」となっております。どちらが道真公の原作かと言えば、勅撰集の信憑性を信じたいのですが、「春な忘れそ」の「な〜そ」は「懇願的禁止=どうか〜しないでおくれ」の語法ですので、都を離れる際の道真公の気持ち(=春になったらどうか忘れずに花を咲かせておくれ)に合致しているようにも思われます。ファーマーさんはどちらが良いと思われますか?

もう一つ道真公の有名な歌は、『百人一首』(24)の「このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに」(この度の旅は、幣も取りおおせませんでした。それでとりあえず手向けます。どうぞこの手向山の美しい紅葉を神のみ心のままにお納め下さい。)ですね。


返信: 岩津天神 - ファーマー 2024/01/20(Sat) 06:25 No.31931
光龍氏さん

歌の専門的なことは、小生にはわかりません。
(興味がないと言うべきかな・・・)

高校生くらいになれば「な〜そ」の語法を理解するでしょうが、大衆には「忘るな」の方が、わかりやすいのかもしれませんね。 人それぞれでいいのではないでしょうか。


天神様の話は、このへんで終わりにしましょう。


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