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旅の参考書
香港・マカオの旅
(2010年1月/ゆりさんの談話室投稿より)
スライドショー(中画面:1024×768)
主人の希望で香港で年越しをいたしました。福岡国際線を利用いましたので台北経由になり、4時間のフライトでしたが台北で1時間止まり、機外に出る人、機内にいる人にわかれ、私達は機内に待機し、色々な仕事をみておりました。本当に機内だけでも大勢の人の働きで、快く旅が出来ることを再認識させられました、良い勉強になりました。

(参考地図:成美堂出版、香港マカオベストガイド2009年版より/以下計3地図/編集子)
香港/到着
香港空港は凄く大きい。
私は4度目の香港。前回は12年半前、返還前の香港。20年ほど前、海外デビューが香港。フリージアさんも同じで、初めての海外は香港が多いようです。
昔はビルの隙間を降下し空港に着地し、恐ろしかったが、新空港は近代的で地下鉄も便利になっており、感心させられました。
ホテルでひとやすみし、香港名物100万ドルの夜景を見に行ってきました。夜景は以前よりとても奇麗。飛行場が遠くに出来、光の規制がなくなったことと、北京オリンピックのお陰で空気が奇麗になった為と説明あり。
今回の旅は、航空券と泊まりたいホテルを航空会社にたのみ、後は好みのオプションを選びました。
世界の三大夜景は一番がブラジルのリオ、二番がイタリアのナポリ、三番目が香港。
水上レストランの夜景
街の中、ホテルの中のイルミネーションは新正月すぎまではクリスマスの飾りが多く、旧正月が、もっとにぎやかに。新正月は休みも1日だけで、旧正月は5日あるそうです。
ホテルの中
香港/街あちこち
天后廟
海と漁師の女神で、万物にご利益があるという天后を祭る道教の寺院。

(出しゃばり編集子注:天后廟の現地入口看板には「Tin Hau Temple」および「ティンハウ廟」と、英語・日本語で連記してある写真をネットで発見しました/でも未解決:ティンハウビョウ?、ティンハウミョウ?)
天后廟2
天后廟3
この寺院に続く浜が、あの慕情のロケ地ですが、最初に訪れた時は面影ありましたが、寺院が来る度に大きくなり、残念ですがあのシーンも消えてしまいました。前回12年半前に来た時、ホテルのバーで楽器演奏者に慕情をひくよう頼みましたが ・・・・・・日本の方が有名で・・・・。私はあの映画大好き。当時黄色の水着まで求めました。
ピーク・トラム
ピーク・タワーに行く・・・100万ドルの夜景を見る・・120年の歴史ある登山列車。暖かいので霧がでてきました。景色は真っ白。昨夜はスバラシイ夜景でしたのに残念。英国人が沢山住んでいた時は、この霧を見て英国本土を懐かしがったそうです。私達が滞在中は昼頃まで霧がかかっておりました。
九龍半島と香港島をむすんでいる地下トンネルは4つあり、地下鉄、船などで簡単に行き来し、自分が今どちらにいるか、と思うぐらいです。
オープントップ・バス
夜の九龍半島を路上の大看板すれすれに疾走する快感。前回は次女と乗り、大騒ぎして楽しかったので、是非主人にもと乗りました。
スピードもあり、香港の運転手さんたちは器用だと感心しておりました。
夜の香港の街
女人街
本当にびっくりするほど多くの品、安さ。
あれこれ見ているだけで楽しかった。何も買わなく、ごめんなさい。
香港/カウント・ダウン
ホテルの正面玄関の通りが車も人も通れなくなり、ポリスが大勢整理に出て海の方で花火が打ち上げられるとか。ホテルの横玄関からルーム・ナンバーを言い、鍵を見せ、やっとホテル内に入りました。ロビーではカウント・パーティーの最中。11時を過ぎておりましたので、お部屋に荷物だけおきにいって、カウント・ダウンの正面玄関広場にまいり、ホテル内はパーティーの人と宿泊客だけになりました。
ホテルの正面玄関でカウント・ダウンを待つ人たち。
みなさん、わくわくして正面玄関の前の舞台でやっている余興を観ています。
もうすぐ新しい年。佳い年になりますように、皆さんの健康を願って。
やはり香港ですね。カウントはドラが出てきて偉い方のご夫人が力強く鳴らしました。同時に金色の四角い紙ふぶきが舞って来て、広場のあちこちでドライ・アイスの煙が立ちこめ、シヤンパンの味がこころをたかぶらせ、新しい年に期待を持ちました。
新しい年。
金色の紙ふぶき。佳き年になりますように。
マカオ 1日観光
朝出て夕方帰る一日観光。
香港マカオ間は40分。スター・ゼットが15分毎に出ている。香港からは外国ですからもちろんパスポート持参。空港のように税関があります。入国・出国カードも書きます。
やはり少し霧がかかつております。マカオ・タワー高さ338メートル、2001年に完成、21世紀のマカオのシンボル。61Fからのバンジージャンプはギネスに認定され、2度目からは半額、4度目は無料、平均一日10名ほど。1回目の料金2万5000円とか、いかがでしょう。
マカオ・タワー
58F展望台のガラスの床。
久しぶりに恐ろしさを感じました。
マカオ・タワー
58F展望台より。マカオもビルが多いですが、一戸建ての高級住宅地方面。
媽閣廟(マコウミュウ)
海の女神を祭るマカオ最古の中国寺院。1800年代に完成。マカオの地名の由来とされ阿媽のほか、丘の斜面には道教の神や仏教の観音も祭られ、多様な信仰に彩られたユニークな中国文化を表している。
マコウミュウ
周りは線香屋さんが多く、大声出して客をよんでいた。
大きな見たこともない渦巻きの線香にはびっくり。
マコウミュウ
この石段が山の頂上まで続いており、そこにお堂があるとのこと。集合時間で、ここでかえりました。ここは世界遺産です。
聖ポール天主堂跡(世界遺産)
マカオの象徴。1602年〜1640年に建設された聖母教会跡。当時は「ローマ以東で最も美しい教会」といわれていたが1835年の火災でなくなり、現在は正面壁のみが残っている。東西の文化交流の影響がみられるその飾りは珍しく、威風が漂っている。
この聖ポール天主堂跡は非常に日本に関係があるもので、建物の向かって右側のサソリのような動物は悪者を意味し、徳川家康とか。その上に神様が乗っておられる。力を抑えている意味とか。イエズス会の印もあります。どこか日本文字もありました。
聖ポール天主堂跡の裏側に世界遺産の大三円牌坊。キリスト教と仏教が隣り合わせにあるのが世界遺産の価値との説明。
世界遺産 セナド広場
マカオで最も美しい広場。さまざまな祝典や催事の会場に利用。美しく波打つモザイクの石畳が有名。石はポルトガルから取り寄せ、敷石職人もポルトガルからやってきた。周囲はネオ・クラシック様式の建物が建ち 華やかでありました。
セナド広場の果物屋さん。やはり南洋の果物ばかり。
聖ドミニコ教会
マカオ一美しいファサード(正面壁)と評判。
聖ドミニコ教会内部
「バラの聖母像」とよばれる聖母マリア像がまつられている。
シンプルで可愛い感じがいたしました。
セナド広場 仁慈堂
1569年アジア初の慈善福祉施設として設立。現在は1Fが公証役場、2Fが宗教的芸術品展示博物館。
マカオの田舎
カジノ組とマカオの田舎組に別れ、私達は田舎組にしました。対岸はもう中国。ポルトガルから独立し10年。経済の豊かさがあまりにも違い何年間か様子を見ることになっております。香港も同じで今12年半経ち、後37年半(独立して50年)で本当の内容の中国になることになっています。それまでは 行き来も自由ではありません。マカオは海鮮、特にカキがよく取れるそうです
田舎の小さな教会。
この田舎のお菓子屋さんでエッグ・タルトを試食いたしました。焼き立てでとても美味しかった。
このホテルはキンキラで 世界遺産を3番目に持つ国にはふさわしくないと市民は反対したけれど、ここのオーナーが国税の3分の1払い、福祉や教育に役立っているので世界遺産より目立つが致し方ないということになったそうです。どこからでも見えますし光輝いて居るので何かしらと思いました。
香港島に渡る船のターミナル。
ターミナルは工事中。よく見てください。足場がみな竹です。地震が無いからとのこと。私も初めて見た時ビッリしました。
船のターミナルから埋め立てで出来た遊歩道。出発まで時間がありましたので散策に出かけました。
船のターミナルの前の大きな時計塔。
とても長い遊歩道、今朝も少し霧がかかっており最後なのに対岸のビルが奇麗に見れなく 本当に残念。 5回目を待っていてくれるのかしら。
マカオ観光より香港に戻って
昔ながらの香港。
12年半ぶりの香港でしたがあまり変わっていなく、でもヨーロッパやアメリカ人が少なくなったよう。私もそうですがアジアの人ばかり、言葉も広東語がおおくなり、料理の味は広東は薄くて私には全部美味しくいただけました。以前ハワイで年越しをいたしましたが香港の方が良かったと思います。個人で違うことでしょうが。

いつもながら、あまりたいしたことも無いことまでだらだら書きまして申し訳御座いません。お詫び申します。
返信投稿など
(閑徒さん)
香港の近代史 日本も占領していた。
1839年:清国とイギリスの間で第一次アヘン戦争が勃発
1842年の南京条約などにより清からイギリスに割譲された土地と租借地で、以降はイギリスの植民地となったが、1997年7月1日に、イギリスから返還され、特別行政区となった。
古くから東南アジアにおける交通の要所であり、また、自由港であることからイギリスの植民地時代から金融や流通の要所でもある。さらに様々な文化が交わることから、中華文化圏のみならずアジアでも有数の文化発信地となっている。
*また日本も1941年:大東亜戦争勃発により日本軍がイギリス軍を放逐し香港を占領。
1945年:日本の敗戦によりイギリスの植民地に復帰。

○アヘン戦争
イギリスでは18世紀に入り紅茶を飲む習慣が一般に広まり、清からの茶や陶磁器の輸入が急激に増えたがイギリスは輸出する物がなく、困ったイギリスは、悪知恵を働かせインドでアヘンを栽培させ、中国へ密売、そのお金で紅茶を買うという三角貿易を考え出した。アヘンを禁止していた清国はイギリス商人が持っていたアヘンを没収し処分するという強硬手段に、これに対して大艦隊を派遣した戦争。

○お茶の文化
日本へ最初にやってきたのはスペインやポルトガルである(前者は=キリスト教を、後者は鉄砲)そして日本からはお茶の文化が伝えられた。その後最もお茶に興味を示したのはイギリスであった。今では紅茶と言えばインド・スリランカなどであるがその製造方法や茶葉の栽培がうまくいかず輸入に頼っていたのである。
日本茶・ウーロン茶も紅茶も原料は同じ。加工の方法で分かれる。
(ファーマーさん)
ゆりさん
香港、マカオの情報 ありがとうございました。
それにしても、4回目の香港とは凄いですね。
(何度行っても、新しい発見・感動があるのでしょう・・・)

閑徒さん
香港、お茶他の解説 ありがとうございました。
高校時代、世界史は結構好きでしたが、現代に関係がある年代の記憶は、残っていません。
(小田嶋先生が教えてくれなかったのか、あるいは忘れてしまったのか・・・)
(編集子)
ゆりさん
「いつもながら あまりたいしたことも無いことまで だらだら 書きまして・・・」とのことですが、よくご存じの方にはそうかも知れませんが、僕には全て興味津々で、ありがとうございました。マカオのカニやアサリの料理、香港の北京ダックなども見られるかと思いましたが残念。マカオのカジノは流石に寄ってはいらっしゃらなかった様ですね。

閑徒さん
解説ありがとうございました。所でマカオは随分長くポルトガル領だったのでしょうか。建築は随所にその名残が伺えるようですが。こんな狭い場所を、地球の裏側から支配するには大変な事でしょうから、余程の「余録」があったのでしょうか。
(ヨーデルさん)
正月の香港・マカオの写真有り難うございました。
もう20数年前の正月、まだ空港が香港市内近くにあった頃、会社の友人と行った時のことを懐かしく思いだしながら見させて頂きました。
とにかく香港の正月はど派手で、ホテル・レストランにいる人達が全員でカウントダウンして、正月午前0時になった瞬間に一斉に爆竹(?)を鳴らしてお互いに握手しながら大騒ぎしたのを覚えております。
先ほどアルバム写真を開いて見ましたら、夕食をした水上レストランが全く昔のままでありましたので当時の写真をお見せします。
「珍寶海鮮舫(ジャンボ水上レストラン)」で、レストラン船の上にはJUMBO 珍賓と書いてある字が読みとれます。
(フリージアさん)
ゆりさんのお写真で 「香港・マカオ」を思い出します。
思い起こせば、勤続30周年の社員を祝って、会社が「香港・マカオの旅」に夫婦を招待してくれ、それに参加したのが私の海外旅行の始まりでした。‘こんなに楽しいものが・’と開眼?、以来飽きることなく、旅のチャンスを待ち望んでいます。

香港ビクトリアピークの100万ドルの夜景、テン・ハウ廟、マカオ聖ポール天主堂などは覚えていましたが、だいぶ記憶も薄らいでおりまして、新しい香港を見せて頂き、ありがとうございました。 あの頃はみんな持てないほどの‘おみやげ’を買い込んだものでした。我が家にも、その旅で買ったタイガーバームのメンソレータムが残っていましたーーのを撮りました。
この家庭常備薬で巨万の富を築いた人が造った庭園は、すごかった。べたべたの極彩色で。

閑徒さん
香港の近代史、アヘン戦争、お茶の文化 面白く読ませていただきました。ありがとうございました。それにしてもヨーロッパの国は(イギリス、ポルトガル、フランス、他にも・・)アジアを植民地として統治して、そこから搾取して多大に潤ったものだと、ふとそんな事も思いました。
(閑徒さん)
マカオの歴史
1513年に、当時世界有数の海洋大国として世界各地にその覇権を誇っていたポルトガル人がマカオに初渡来し、明王朝との交易を開始した。
その後、1557年にポルトガルが明から居留権を得、中国大陸における唯一のヨーロッパ人居留地となった。…交易の中心として独占的利益を得ていた。
なお、この前後にカトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人であるフランシスコ・ザビエルが、ポルトガル政府の支援の下、マカオを拠点に東南アジア各地でキリスト教の布教活動を行っていた。…キリスト教布教の拠点
この頃のマカオは、日本が鎖国するまでは長崎との貿易で繁栄を極めたが、明清交替期の動乱や広東(広州)の対外開放により、アジアにおける一大貿易港としてのマカオは次第に衰えていった。

○ 世界の覇権国5百年前、コロンブスがアメリカ大陸を発見して以来、西洋人は競って世界に乗り出して覇権を争い世界各地を植民地化した。16世紀から覇権国はポルトガル、スペイン、オランダと移動し、19世紀は英国、そして20世紀はアメリカとなっている。
○なぜスペイン・ポルトガルか
この頃この地域はイスラム勢力の進出に悩まされ、国家の統一が必要であった。そして強力な中央集権国家を建設し、イスラム勢力を追い払い世界に進出していった。

○ ポルトガルの植民地に
大英帝国がアヘン戦争に勝利して、1842年に香港島を獲得すると、ポルトガルも1845年に「マカオ自由港」の成立を宣言統治権を獲得し正式に同国の植民地とした。
しかし、当時ポルトガルの国力は凋落しており、それに対して世界各国に植民地を保有し隆盛を誇っていた大英帝国の植民地である香港の繁栄により、マカオの貿易港としての地位は全く凋落してしまった。
その後1941年に起きた第二次世界大戦においてポルトガルは中立国となり、当時東南アジア全体を占領した日本とは交戦状態に入らなかったため、日本軍はマカオを占領せずに駐在武官を置くに止め中立港として機能した。このため、戦火を逃れようとした大量の難民が中国大陸から流れ込んだ。

○戦後
その後もイギリスが統治を続けた香港同様、マカオも依然としてポルトガルの統治が続い
マカオの行政管理権は1999年12月20日に中華人民共和国へ返還され、マカオを特別行政区にすることになった。

○現在
2002年には、カジノ経営権の国際入札を実施し、その結果これまで独占してきたカジノ産業は香港系の資本やアメリカ資本にも開放し、その結果多くの外国からの投資を呼び込むことに成功し、経済的発展が進んでいる。
しかし、社会主義市場経済を標榜する中国がカジノ文化をいつまで認めていけるのか。一部のお金持ちたちがカジノで遊び大金を使う状況を貧しい内陸の人々はどのようにみているのか。
(ゆりさん)
閑徒さん ありがとう御座いました。アヘン戦争のこと、マカオとフランシスコ・ザビエルの話も書こうと思いましたが(イエズス会が主になり、布教を始めましたが、ザビエルはマカオに来られず、途中で亡くなっています) 、少し硬くなってしまうのでやめましたら、やはりプロでいらっしゃる、上手にまとめてくださり、感謝しております。
小澤さん
主人が、初めての香港でしたので観光を主にし、最後の1月1日の夜だけ、スバラシイ美味しい食事をいたしましたが、観光で入っておりました食事も、大変おいしかったです。上海蟹はシーズンがあり、北京ダックも、以前きました時頂きましたので。 カメラに食事を撮るの苦手でごめんなさい。隣のテーブルの方が北京ダック召し上がっておりました。以前参りました時、香港は蟹でも魚でも、テーブルに生のまま持ってきて、OKを出すと調理してくれたこともありました。
若い時は買い物に走りましたが、今回はオプションを沢山いれたので、それだけをこなすのに一生懸命でした。やはり 若い内ですね。 
マカオのカジノも、遊ぶ時間1時間ではものたりなく、私達はマカオの田舎を回りました。一時間のカジノ組も何も賭け事しなく、ワインを飲んで、見てきただけでした。そのガイドさんが受け持ったお客さんで、最高に儲けた方は百五壱万円、負けた方は1千万円だったとのこと、何時間でか、わかりませんが。
(楓さん)
ゆりさん 香港マカオの美しい写真有難う御座います。
香港のカウント・ダウンは日本のクリスマスのイメ−ジですね。金色の紙ふぶきを戴くと本当に幸せ戴ける様な気持ちに成りますね。
閑徒さんの歴史から、旅された方々の写真から、昭和50年に舅が香港へ旅した事を思い出し、古いアルバムを開き亡き舅を偲びました。写真も白黒で歴史を感じますね。
('10.01.09 初掲)