牛川の渡し、昔からありましたよね。確か小学の終わりか中学の初め頃、乗った覚えがあります。懐かしい故郷を思い出すお写真ありがとう御座います。遠くに居りますと、懐かしい昔の香りが嬉しくなります。/(ゆりさん
'09/08/06) |
白いブランコさん “牛川の渡し”なにやら大変懐かしい雰囲気ですね。竿を用い人力で船をこぐ。故郷に こんな風景があったのですね。いまや手漕ぎは地球環境にもやさしく エコでもありますし・・。
何よりもこの暑さの中、スーと涼風が吹き貫けて? 行きました。/(フリージアさん '09/08/06) |
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白いブランコさん、ようこそ『牛川の渡し』にお越しくださいました。私の家から歩いて15分足らずのところです。
豊橋市制100周年記念に、「牛川校区のあゆみ」が作成され、『牛川の渡し』が載っていましたのでその記事を使わせて頂きます。渡しの写真はブランコさんのをご覧下さい。
私等の子供の頃、近在では『豊川の渡し』と言え『賀茂の渡し』『三上の渡し』『行明の渡し』『牛川の渡し』が有りましたが、賀茂橋が出来、三上橋・下条橋が出来ましたのに、なぜか牛川橋は未だに出来ません。政治の力が弱いのでしょうか?ね。
豊橋は、豊かな橋と書きますのに橋の数が少なく、朝のラッシュ時は車の渋滞で難儀しています。
ゲンジボタルさん、子供の頃は『行明の渡し』付近で、一日中河童遊びで明け暮れたでしょうね。ダイビングは幼少の頃に身に付いたのですか?/(楓さん '09/08/06) |
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僕の家から揖斐川沿いに車で10分ほど下ると、「呂久(ろく)の渡し」があったことを今頃になって思い出し、行ってきました。
こちらに来た40年ほど前は、そこには、大雨になると水没する水面すれすれの木製の橋が架かっていましたので、それが「渡し」と誤解していました。渡しは遙か大正末期に無くなり、その後に橋ができていたのを、地元では昔ながらの「呂久の渡し」と呼んでいたようです。
今はすべて無くなり、その上に立派な国道のバイパスが作られ、4車線の橋が架かっています。/(編集子 '09/08/07) |
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楓さんのご指摘通り、確かに行明にもありました。ゆりさんやフリージアさんではないが、忘れていたものを想い出させてくれました。白いブランコさんありがとう。私は随分ここで遊ばしてもらい、いろいろな記憶が蘇りました。
お盆になると、小学生(4年生?)〜中学生(1、2年?)にかけて先輩達に連れられ、夜そっと渡し船に乗って対岸へ。河原で竹を切り、むしろを張ってのキャンプは最高の楽しみだった。持ち出した米を飯盒で炊き、渡し船を使ってガス(カーバイド)灯で魚を捕り、野菜を失敬して宴を張った。
1泊しながら先輩達から「お前、あそこに毛は生えたか、アレ(自慰)したことはあるか」など、大人の入り口の話ばかりだった。今思うと家庭では教えてくれないこと。当日の任務分担もはっきりしていて、危険なことは中学生、簡単なことは小学生。守ること(渡し船は翌朝の1番までに返却)や禁止事項もあった。
この遊びは秘密(親は知っていたに違いない)で、その他の場所で話題になることはなかったような気がする。しっかりしたリーダー(やがて大きな会社の重役)がいて、隣の集落と喧嘩したり、牛久保(中条?)チームと野球の対外試合もした。少年時代のこの経験が実社会に出て役に立つ! なんて言う発想は全くない。今、これに代わる物は何だろう?
写真はいつか分からないが、行明に遊びに来たコウテン・林芳弘君(3組?)が渡し船を漕いでいる。確か、船が流されないように川を横断したワイヤーに滑車を付けて結ばれていた。今もそうですか? 長くなりました。つい、力が入りました。/(ゲンジボタルさん
'09/08/07) |
私は、小学4年の夏、町内の子供組で、トウゴの橋の下の豊川に泳ぎに行きました。私は、おぼれ、流され、ごぼうを洗いにきていたおじさんに、意識不明で首を片腕で巻くようにして引き上げられました。気がついた時は、人工呼吸をしてもらっており、その意識のない間、美しい ケシの花畑をかき分け、向こうから大勢知っている人が、花を掻き分け通り過ぎ、私には言葉もかけずに反対の方向に行ってしまいます。なぜ なぜと思っているうち、言葉をかけて来た人達は亡くなっておられる人ばかりでした。意識が戻り、今があるのです。ごぼう洗いのおじさんは、母方の親戚の人でした。 本当に体験した話です。 変な話で失礼いたしました。/(ゆりさん '09/08/07) |
小澤さん 『呂久の渡し』が 水潜り橋に成り 立派な橋に成ったのですね。『三上の渡し』も水潜り橋から 現在の立派な橋に付け替えられました。投薬から、日が浅い中 現場での写真とても嬉しく拝見しました。
ゲンジボタルさん 少年時代の玉手箱開けて下さり有難う御座いました。少年ならではの 探検で実に楽しく読ませてもらいました。当時の子供等にも ちゃんとしたル−ルが有り立派でしたね。
暮川にも地元の者だけが利用していた船があり 対岸の大村の畑に行く農道として利用されていましたが自動車の時代に成り 下条橋が出来てから 渡し舟は無くなりました。
昔はプ−ルは無く 川がプ−ルで見張り役も無く 水難事故が多かったですね。ゆりさん 当古橋の下で溺れ助けられたとは 親御さんは聞いてビックリ 肝をつぶされたでしょうね。/(楓さん '09/08/07) |
今日ふと姑の古いアルバム開きましたら、下条橋完成で『行明の渡し』が閉鎖される 新聞記事が張ってあり 初めて気がつきました。
義母は牛久保から暮川に嫁ぎ 『行明の渡し』を使って行き来、下条橋の完成を長年 ゆめゆめ願っていたのでしょうが 完成した頃は 寝たきり状態で 見る事が出来ませんでした。
でも 障害を持つ右手でこの新聞記事を切り取り 張っていたとは 目頭の熱い思いです。
皆さんに見て頂きたいと思い 投稿しました。/(楓さん '09/08/08) |
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