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旅の参考書
ふるさと探訪(牛川の渡し)
資料提供:白いブランコさん、ほか
←「牛川の渡し」付近地図


フォトムービー(サイズ:640×480)
 ・スライドショー代わりに試作しました(約1分)
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談話室投稿:白いブランコさん '09/08/05

豊橋市創造大学から、徒歩で、10分ほどの豊川のほとりに、今、なお、人力の竿で、牛川町と大村町を結ぶ、渡し船が、あります。/定員11名。
多い時で、日に50名ほどの利用者が、あるとのことです。
大変、ローカル色豊かな風情です。
木ずちで、船呼び板を、たたいて、船頭さんを、呼びます。
牛川町から、対岸の大村町へ、着きました。映画「ちゃんと伝える」には、この場所も、登場するそうです。

暑い毎日が、続きます。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいますよう!
白いブランコさん 本当にのどかな光景ですね。今でも、このような渡し船があったとは・・・。ところで、1回の料金はいくらなんでしょう。/(ファーマーさん '09/08/06)
料金は、無料です。
この日は、暇だったのか、船頭さんは、色々と苦労話をして、80メートルの距離なのですが、大分迂回をして、おまけをしてくれました。
私が、降りた後、大村町の男性が、自転車ごと、乗り込みました。「この子は、学生のころから ず〜と、使ってくれている」と船頭さんは、目を細めていました。
牛川の渡し、昔からありましたよね。確か小学の終わりか中学の初め頃、乗った覚えがあります。懐かしい故郷を思い出すお写真ありがとう御座います。遠くに居りますと、懐かしい昔の香りが嬉しくなります。/(ゆりさん '09/08/06)
白いブランコさん “牛川の渡し”なにやら大変懐かしい雰囲気ですね。竿を用い人力で船をこぐ。故郷に こんな風景があったのですね。いまや手漕ぎは地球環境にもやさしく エコでもありますし・・。 何よりもこの暑さの中、スーと涼風が吹き貫けて? 行きました。/(フリージアさん '09/08/06)
白いブランコさん、ようこそ『牛川の渡し』にお越しくださいました。私の家から歩いて15分足らずのところです。
豊橋市制100周年記念に、「牛川校区のあゆみ」が作成され、『牛川の渡し』が載っていましたのでその記事を使わせて頂きます。渡しの写真はブランコさんのをご覧下さい。
私等の子供の頃、近在では『豊川の渡し』と言え『賀茂の渡し』『三上の渡し』『行明の渡し』『牛川の渡し』が有りましたが、賀茂橋が出来、三上橋・下条橋が出来ましたのに、なぜか牛川橋は未だに出来ません。政治の力が弱いのでしょうか?ね。
豊橋は、豊かな橋と書きますのに橋の数が少なく、朝のラッシュ時は車の渋滞で難儀しています。

ゲンジボタルさん、子供の頃は『行明の渡し』付近で、一日中河童遊びで明け暮れたでしょうね。ダイビングは幼少の頃に身に付いたのですか?/(楓さん '09/08/06)
僕の家から揖斐川沿いに車で10分ほど下ると、「呂久(ろく)の渡し」があったことを今頃になって思い出し、行ってきました。

こちらに来た40年ほど前は、そこには、大雨になると水没する水面すれすれの木製の橋が架かっていましたので、それが「渡し」と誤解していました。渡しは遙か大正末期に無くなり、その後に橋ができていたのを、地元では昔ながらの「呂久の渡し」と呼んでいたようです。

今はすべて無くなり、その上に立派な国道のバイパスが作られ、4車線の橋が架かっています。/(編集子 '09/08/07)
楓さんのご指摘通り、確かに行明にもありました。ゆりさんやフリージアさんではないが、忘れていたものを想い出させてくれました。白いブランコさんありがとう。私は随分ここで遊ばしてもらい、いろいろな記憶が蘇りました。

お盆になると、小学生(4年生?)〜中学生(1、2年?)にかけて先輩達に連れられ、夜そっと渡し船に乗って対岸へ。河原で竹を切り、むしろを張ってのキャンプは最高の楽しみだった。持ち出した米を飯盒で炊き、渡し船を使ってガス(カーバイド)灯で魚を捕り、野菜を失敬して宴を張った。
1泊しながら先輩達から「お前、あそこに毛は生えたか、アレ(自慰)したことはあるか」など、大人の入り口の話ばかりだった。今思うと家庭では教えてくれないこと。当日の任務分担もはっきりしていて、危険なことは中学生、簡単なことは小学生。守ること(渡し船は翌朝の1番までに返却)や禁止事項もあった。
この遊びは秘密(親は知っていたに違いない)で、その他の場所で話題になることはなかったような気がする。しっかりしたリーダー(やがて大きな会社の重役)がいて、隣の集落と喧嘩したり、牛久保(中条?)チームと野球の対外試合もした。少年時代のこの経験が実社会に出て役に立つ! なんて言う発想は全くない。今、これに代わる物は何だろう?

写真はいつか分からないが、行明に遊びに来たコウテン・林芳弘君(3組?)が渡し船を漕いでいる。確か、船が流されないように川を横断したワイヤーに滑車を付けて結ばれていた。今もそうですか? 長くなりました。つい、力が入りました。/(ゲンジボタルさん '09/08/07)
私は、小学4年の夏、町内の子供組で、トウゴの橋の下の豊川に泳ぎに行きました。私は、おぼれ、流され、ごぼうを洗いにきていたおじさんに、意識不明で首を片腕で巻くようにして引き上げられました。気がついた時は、人工呼吸をしてもらっており、その意識のない間、美しい ケシの花畑をかき分け、向こうから大勢知っている人が、花を掻き分け通り過ぎ、私には言葉もかけずに反対の方向に行ってしまいます。なぜ なぜと思っているうち、言葉をかけて来た人達は亡くなっておられる人ばかりでした。意識が戻り、今があるのです。ごぼう洗いのおじさんは、母方の親戚の人でした。 本当に体験した話です。 変な話で失礼いたしました。/(ゆりさん '09/08/07)
小澤さん 『呂久の渡し』が 水潜り橋に成り 立派な橋に成ったのですね。『三上の渡し』も水潜り橋から 現在の立派な橋に付け替えられました。投薬から、日が浅い中 現場での写真とても嬉しく拝見しました。
ゲンジボタルさん 少年時代の玉手箱開けて下さり有難う御座いました。少年ならではの 探検で実に楽しく読ませてもらいました。当時の子供等にも ちゃんとしたル−ルが有り立派でしたね。
暮川にも地元の者だけが利用していた船があり 対岸の大村の畑に行く農道として利用されていましたが自動車の時代に成り 下条橋が出来てから 渡し舟は無くなりました。
昔はプ−ルは無く 川がプ−ルで見張り役も無く 水難事故が多かったですね。ゆりさん 当古橋の下で溺れ助けられたとは 親御さんは聞いてビックリ 肝をつぶされたでしょうね。/(楓さん '09/08/07)
今日ふと姑の古いアルバム開きましたら、下条橋完成で『行明の渡し』が閉鎖される 新聞記事が張ってあり 初めて気がつきました。
義母は牛久保から暮川に嫁ぎ 『行明の渡し』を使って行き来、下条橋の完成を長年 ゆめゆめ願っていたのでしょうが 完成した頃は 寝たきり状態で 見る事が出来ませんでした。
でも 障害を持つ右手でこの新聞記事を切り取り 張っていたとは 目頭の熱い思いです。
皆さんに見て頂きたいと思い 投稿しました。/(楓さん '09/08/08)
つづき
(「今朝の様子」を楓さんがカメラに収めて下さいました/'09.08.15)
近くにいましても実際に利用した事は無いですが 今朝の『牛川の渡し』の写真です。

県道より 船着場まで自動車で行けます。駐車場は普通車2.3台は出来ます。
昔の『行明の渡し』跡地も近いので 写真に収めてきました。
この鉄柱は行明の渡しのワイヤ−ロ−プを張った鉄柱でしょうか?先に下条橋が見えます。
当古橋と下条橋の間に『行明の渡し』と『天王の渡し』が有りましたが、私は 『天王の渡し』が有った事 今朝初めて主人から聞き 現場まで見に行ってきました。
S53年に下条橋完成と同時に 廃止されました。
『天王の渡し』の跡地には石碑があり、豊橋市教育委員のネ−ムが入っていました。
ゲンジボタルさんらが少年時代にキャンプを張った辺りか?下条よりの河原でのキャンプ場風景です。キャンプ場の元祖は ゲンジボタルさん?
キャンプ場の先に 霞んで見えますのが 当古橋です。
('09.08.14 初掲)