イタリア研究会in輪中
(H18.09.28)
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← 秋晴れの好き日、イタリア研究会メンバー計4名は、この長良大橋を渡り3名が西より、1名は北より・・・ |
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この木曽三川(さんせん)公園に集合した。 → |
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来月の渡伊打ち合わせ目的もあったが、他に二つの目的があった。 |
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← 一つは、水害と闘った輪中(わじゅう)の歴史を学ぶこと(写真は海津市歴史民俗資料館)、 |
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もう一つは、84名もの犠牲者を出しながら、治水工事に取り組んだ、薩摩藩士・平田ゆきえ達の偉業を学ぶことであった。 → |
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← じゃあ彼らは?→ |
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← 薩摩藩(今の鹿児島県)よりやってきた900名以上の藩士達が、揖斐川と長良川を分ける堤防(千本松原)建設の難工事に挑んだ。今から250年前(1750年代)、江戸・宝暦時代に行われたので、宝暦治水工事と呼ばれる。 |
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平田ゆきえほか、84名の犠牲者の魂を祀り、その偉業に感謝する地元の人々は、治水神社を建て、薩摩藩の紋を使用している。 → |
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輪中を生んだ三本の川と千本松原を見渡せる木曽三川公園内展望タワーに登ることに。 |
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← 展望台より北東を望む。 |
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手前が長良川、その右(東)が木曽川。 →
東は尾張藩。東側堤防は、西側堤防より高く建設され、洪水は左側「輪中」地区に流れ込むようになっていた。 |
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← 西に揖斐川。
当地が、三本の大きな川が合流する地点に当たり、水難と闘う歴史は長い。各村や地区は水の侵入を防ぐ堤防で囲むことで、輪中を形成した。 |
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南に一本の細い堤防。 →
長良川(左・東)と揖斐川(右・西)を分ける堤防には松が植えられ「千本松原」と呼ばれている。両川の水面には落差があり、長良川の方が、揖斐川よりかなり高い。 |
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(オマケ)
ただ今、当公園ではコスモスが咲き始めました。 |
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宝暦治水裏面史:工事費は予算の約2倍の40万両に増加、病死者も33名を数えた。工事期間中に幕吏からの度重なる嫌がらせや妨害工作が有り、幕府に対する抗議の自殺者は51名にのぼった。1755年(宝暦5年)完了検分後に、総奉行であった平田は予算超過の責任をとるとして自害している。・・・この背景には薩摩が琉球との密貿易などで莫大な富を得ていたことから、その力をそぐ狙いもあったと見られる。(以上、Wikipediaより)/小生の経済学の恩師は、平田ゆきえの子孫に当たる平田清明氏であった。彼のある著書の後書きか前書きの中で、「実はゆきえは自害ではなく、京都へ工事費用の工面に行く途中腹の病で倒れたのだ。それを自害と美化して伝えてくれている、と曾祖父が語っていた」というような記述を以前小生は読んだことがある。正確な著書名・ページ数等判明の節は追記の予定。(小澤) |