人生76年を振り返って
橋 本 孝 守
もう30年の卆業記念同窓会から10年も過ぎてしまった。私の日記"28年間1日わずか数行の日記をつけている"、平成5年5月16日豊川グランドホテルで盛大に実施され何年振かで会って感動した。翌17日には忘れ物を富田君、山脇君に届けてもらい恐縮した、と書いてある。あのときから10年にもなってしまったのかと更めて月日の早さをしみじみと感ずる。そうだろう早76才にもなってしまったのだから。
30周年の゛光風″の自分の書いた文を見るとどうも肩を張って力んでいる。"もう1度30周年の光風を読んで下さい"、人生ってもっとゆったりしたものだと今は考えている。丁度あの頃は小坂井区の仕事と岡崎高校非常勤講師で毎日が忙しく充実していた頃だ。今になると矢張り60代はまだ若く活力があったと思う。あの30周年以降体の方も色々変った。かつて30代の若い頃授業中に「自分は顔と目には自信がある」と云っていた。卆業アルバム1963年2ページの所を見て下さい。30代前半までは両眼とも視力2.0だったので目の大切な事など全然感じていなかった。数年前眼底出血(自分は糖尿病でも高血圧でもない)で右目が0.1以下になってしまった。これは決定的治療がなく自然の回復を待つしかない。顔もすっかり変ってしまひ昔の姿今いずこ。晴耕雨読と云ふけれど視力のため活字からの楽しみがなくなった。左眼は0.7で日常生活に一応支障はないが、妻が軽い脳梗塞で自転車に乗れず自動車が是非必要で自動車免許証のためにも左眼を大切に注意深く運転している。又4年程前より血便が続き近くの青山病院に入院検査の結果潰瘍性大腸炎で46日入院した。あまり知られていないが厚生省の難病に指定され感染の心配はないが全国に6万人比較的若い患者が多い。軽い症状と重い症状を繰り返し完治は仲々むつかしく丁度12回生の40周年は調子悪く欠席して本当に残念でした。日常生活の中で食物の制約が特にきびしく食べる楽しみも取られてしまひました。現在の所比較的好調に日々過ごしているが4月、5月の若葉青葉の頃が一寸心配ですが15回生の会には是非出席したいと今から心掛けております。
長い人生の中には色々ある。脳梗塞の妻と体調不良な二人で互に支えながら孫と過ごす時を楽しみに日々送っている。自分達夫婦は世の中の片隅でそっとさゝやかに互をいたわりながら過ごすよう心掛けている。
大正、昭和、平成と3世代の戦中派でまさに激動の世代を送って来た。旧制中学の同級生の中には予科錬で終戦直前台湾沖海戦で特攻隊として戦死した者、今は元気に過ごしているが徴兵されて戦後極寒のシベリヤに抑留され生死の間をさまよった者。広島原爆で多少被爆したが幸元気で広島市内の遺体を収容した者。自分も徴兵延期とは云え(昭和18年学徒出陣で雨中神宮球場で行進が行われたのは文科系のみで理科系は徴兵延期されていた。)学徒動員で名古屋三菱発動機製作所(大曽根の名古屋ドーム附近)で飛行機のエンジンを作っていた。B29の爆撃に明け爆撃に暮れ悲惨な生活だった。あの昔の名古屋城が眞赤の炎の塊となって崩れ落ち火花が散った姿はいまだに頭の中から消えない。終戦直後から物資不足で結核患者が急増し同級生でも20名余が死亡している。自分も昭和24年に結核に感染したが丁度新薬が出来たお陰で今迄過ごしている。然し23才から26才までの満3年闘病生活をベッドで過し青春時代はなかった。此の頃は病気に対する世間の眼は冷たく両親、兄弟に迷惑をかけた事を今でも申し訳なく思っている。
扠国府高校は昭和32年から48年まで16年間過させていたゞいた。年令では30才から46才まで、人生一番充実した時だった。15回生については、1年入学から卆業後の浪人係としての1年間を加えて計4年間を共に過ごした事になる。本当に楽しかった。考えて見ても嫌な思出は一つもない。特に3年6組の男子組は楽しかった。夏の暑い午後の授業で全員上半身裸でやった数学の授業などなつかしい限りだ。私の人生で一番輝いた時だと思う。あれから40年、30年の時会ったとは云えそれでも10年も過ぎている。世の中も、人生も、色々変って再会してもすぐには思ひ出せないかも知れないが話せばすぐ40年前の若い時にもどることだろう。今から体調を整えてその折を楽しみにしています。