想 い 出
           15回生 9組担任 河 合  田鶴子
 私も国府高女10回生です。水戸県立高女から2年生に転入、言葉、風習、校風の違いに驚きました。一人っ子で育ちましたので女学校時代の苦手教科は家事裁縫(今は被服調理)で、家庭的な事は何もできないので、東京の實践女子専門学校(現実践女子大)に入学させられ3年間寮生活を送りました。おかげで教員免許状はとれ卒業と同時に結婚夫は養子で妊娠出産一男一女を設け、夫が中國青島に勤めることになり3才の長男1才の長女を伴い夫の妹が家事手伝いとして一緒に青島にいき、二男は青島で出産、しかし夫が発病5ヶ月入院、豊橋市大崎町の郷里に帰郷、直ちに名大病院に入院治療5ヶ月で昭和17年5月に死亡しました。両親の世話になり気晴らしに国府同窓会の総会に娘を連れて出席、担任だった多田野先生が現在家事の先生が欠員だから母校に勤めよと進められましたが教員になるために実践に学んだのではないので、自信がないから辞退しましたが、子供3人は両親が育てるというので勤めました。お粗末な先生の出発です。最初の1年間は猛勉強し2年目は更に手を加えたノートを作り努力しました。昭和17年より2年勤めたら19年に県出向(尾張で1名、三河で1名)命令をうけ視学委員として戦時中の学校給食指導、学徒動員の女子10名位の宿泊練習大量炊事などで学校給食は未利用資源の活用(蛇、蛙、とんぼ、さなぎ、せみ、など)、それと野菜の調理を研究し県下の教育事務所単位に調理指導をしました。用意された学校にいくと教卓の上に広口瓶一杯の蛇がありました。夜なら縄をみても蛇にみえて恐ろしい私ですので、さて困ったなと瓶の蓋をとり手を入れると喰いつきますので床に瓶より蛇を一匹だすと、にょろにょろ動くので首を持って包丁で切り皮をむくと、すーっとむけました。7p位に切り骨をたゝきかばやきにして教室一杯の先生方の前列の校長先生にどうぞと差出すと、いらないと逃げられました。蛙は簡単にむけますのでミンチにかけてつみれや、ハンバーグなどにして食べて頂き恐ろしい蛇との戦い一回目終了、やれやれでした。集まった先生方は興味しんしんと私をみつめていました。恐ろしかったです。学徒動員の男子は竹槍訓練、女子は大量炊事、戦時中なので空襲警報になると火を消して防空壕に生徒を連れて逃げるなど、終戦勅語もこの場所できゝ母校に戻り生徒達ともあいましたが豊川工廠で戦死した生徒も10人いました。戦後はアメリカの指導で教員の大移動(10人位)で豊橋東高校に転任させられ高校3回〜8回再び母校にもどり高校9回〜20回まで、1年おきの3年生担任で進学就職と忙しい学校生活でした。
 昭和43年に再び県教委に呼ばれ社会教育課で婦人教育を担当させられ県下の女性団体の指導です。女ボスの集まりの感がありこれは恐ろしい社会だと感じました。県婦人文化会館の建設事業(3年間)は色々な関係官庁との接遇など、会館オープン昭和43年からは会館運営、各種講座の開設などの責任者としての勤務でしたから、豊橋の大崎から名古屋への通勤は往復5時間かけてました。この間両親とも死去、思いきって家、宅地、田畑をすべて処分して名古屋に引越しました。
 現在の生活は二男が昨年63才で病死しましたので、長男(大府市)孫4人(東京在住3人、大阪1人)曾孫が5人になり名古屋で一人暮らしです。鶴舞公園が庭みたいなので毎日朝6時より散歩、ストレッチ体操、ラヂオ体操をして、子・孫孝行をして87才になりました。寝たきりやボケにならないように中国で暮らした自己責任の精神で暮らしています。皆さんは何才になられましたか?お孫さんのいる方もおありと思います。他人に迷惑をかけないよう自立した老後を送っています。お目にかかるのを楽しみにしております。

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