国高卒業40周年に寄せて
   15回生 冨 田 主 計

 先日(平成15年3月中旬)、NHKテレビ放送50周年記念企画として「おしん」(少女編)が再放送された。「おしん」は、大手スーパー・マーケットの創業者の実話を元にしたドラマで、少女時代に奉公に出されたヒロイン・おしんが苦難に耐えながら生き抜く姿を描いた明治女性の一代記である。当時、最高視聴率が60%を超えた。後に外国語にも吹き替えられて輸出され、アジアを中心に「おしんブーム」が世界に広がった。一時は外国で「日本人」の代名詞のように「おしん、おしん」と、日本人観光客が呼びかけられた話は何度となく聞いた。今回の再放送も少女時代のヒロインを演じた小林綾子のかわいらしい演技が現代の若い人たちの注意を引いたようであった。
 そのドラマの話が私の職場で話題になり、私が「いつ頃の放送だったかねー。もう10年くらい前のことだよね。」と言ったとたん、「先生、何言ってるの。もう20年以上も前のドラマだよ。主人公の小林綾子はもう結婚し、子供まで居るんだよ。」と言われ、私の記憶のいい加減さを思い知らされた。実際、昭和58年(1983)4月から昭和59年(1984)3月までの放送であった。しかし、このドラマは今の高校生はもちろん、30歳以下の人たちには新鮮なのである。
 また、先日30歳前後の若い人たちとカラオケに行った。私が歌うはめになり、恥ずかしい気持ちで、私の古いレパートリー、「大阪しぐれ」、「奥飛騨慕情」のナツメロを歌った。誰もが好みの歌ではないにしても、少なくとも誰も聞いたことはあると考えていた。しかし、その若い人たちはいずれも知らないと言いながら、新鮮な感じがすると言ってくれたのには驚いた。考えてみれば、それもそのはず、2ヶ月もすると流行がすたれてしまう芸能界にあって、もう20年以上も前のヒット曲であるのだから。
 このように人間の記憶とはいい加減なものである。いい加減であるというのは、既に知っている、分かっているはずのことがいかに断片的で、曖昧なもので、いい加減であるかということである。
 また、同時に人間の記憶とはすばらしいものであるとも思う。例えば、一枚の写真があれば、その時の、その場の、その前後の記憶が鮮明に蘇ってくるのである。普段全く関わりが無く忘れていることでも、何かのきっかけで思い出すということは、自分の頭脳の潜在意識の中に莫大な記憶量がしっかりと蓄積されているのである。きっかけがなければ永久に利用されることはないのが記憶なのである。人は膨大な記憶量を持ってはいるが、ただ必要なときに必要なことが思い出せるかどうかが肝心な所である。
 しかし、この度の同窓会総会や、同窓生、同級生の集まりは、古い記憶の虫干しの機会である。今ここに高校卒業40周年を迎え母校の同窓会総会に、同級生と共に参加できることはこの上ない喜びである。20年、30年でなく、40年も前の青春時代が鮮やかに蘇ってくる。同級生や懐かしい恩師が、年を取らずにその時のまま思い出される。40年間の記憶の最下層に蓄積されていた記憶のファイルが、40年間の時を経て蘇り、現実のものとして目の前に広がる。懐かしさと共に、苦々しい思いや、恥ずかしさも伴う思い出が広がる。記憶の糸をたぐり寄せ、思い出に浸り合う。思い出話は心のふるさとを訪ねる旅でもある。心のふるさとは互いの心が安心できる所である。思い出話は、単なる虫干しではなく、その思い出が今の私たちの生き方につながるときには、確かに生の喜びと生きる力が生まれる。友との思い出話が脳に対しよい刺激となり、脳を活性化するのである。
 今回のこの同窓会を介しての出会いは、高等学校という制度の中に偶然束ねられた私たちの運命といえども、同じ時代と時間の中で、様々な人生を演じながら、40年という時を経ての出会いである。時の隔たりを超えて、難しい前置きの挨拶抜きの、「やあ」「おい」で始まる親しみを込めた話に花が咲く。
 「やっぱり、いいなあ。同級生がいることは、同級生に出会うことが出来るのは、同級生と語り合えるのは。」とつぶやいている自分である。

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