亡妻一周忌を終えて
3年1組担任・都 築 一 郎
(都築先生は、平成13年8月15日奥様を亡くされました。享年72才で、闘病の日々4ヶ月余り、金婚式を病中に過しての悔しい最後となられた由にて、心からお悔み申し上げます。先生は、昨年度の同窓会記念誌に「幸代子と私」と題する原稿を寄稿されていらっしゃいます。奥様の生い立ちに始まり、お二人のなれ初め、その後の結婚生活等、奥様に対する愛情あふれる文章は、「忍び寄る老化には誰も抵抗できぬものの当分生きて行くことは出来そうです。長男も一緒に暮らしていますから独居老人というわけではありません。時は移り人は替わります。諸行無常の言葉の意味が身に染みてくるようになりました。」で結ばれ、最後に奥様に捧げる次の和歌三首が添えられています。
『黒髪の ままに先逝く 君哀し 若く華やぎ 美しき君』
『君逝きて 何楽しまむ 老の坂 共に過せし 日々を偲ばむ』
『耳遠く 忘れ激しき 吾をおき 辿る黄泉路は せつなかるらむ』
尚、全文は「ホームページ」にてご覧下さい。)
「幸代子と私」は、「光風」に載せて頂きました。お気持のある方はホームページで見ていただくことにして、近頃の思いを書き記します。
子供を失ったのと同じく配偶者を失う不幸は経験者にしか本当のところは分からない、筆舌に尽し難い人生の最大悲歎事です。一時は「呆然自失、失意落胆」の究みを味わい、生きる意欲さえ乏しくなってしまいました。妻の生前はやがて男やもめの生活が待っていようとは夢想だにしていませんでした。
然し一人遺された以上何とか立直るしかありません。前文は私なりの妻への供養でしたし、一面悲しみを紛らわすために書きました。日常毎日の仏まいりや墓参法事はしきたりに従って行ってきて何がしかの心の安らぎを得ています。ただ追慕哀悼の後向きの姿勢だけでは益々老化が進み、病を得そうな予感さえ覚えるようになりました。もっと前向きな積極的な生き方を求め、配偶者喪失関連の著書を読み、交際のある旧海軍の一人暮しの先輩からお話をうかがってきました。読んだ本は「夫、妻の死から立直るヒント集」(三省堂)とか、新藤兼人(女優・乙羽信子の夫)著、「愛妻記」(岩波書店)等で他人の不幸に心から同情できるようになった私に気づきましたし、夫婦が一緒に死ねない以上どんな夫婦でも一人は必ず何時か喪失体験をせざるを得ず、相手がこの体験をしないで先立ったことをせめてもの喜びとするという達観した心を持つことが印象に残ります。要するに心理操作で視線を遠くすることでしょう。
海軍の先輩からは海軍らしく端的で実際的な言い方で「開き直って生きよ」「顔を出し、汗を出し、金を出す」と教えられました。案内のある諸会合には都合のつく限り出席すること、労働や運動に汗を出すこと、日頃質素にしていても出すべき金は出すということです。私は故人も喜ぶと思って家事や庭仕事など手を抜かずやっていますし、趣味の旅行費は惜しまないようにしています。葬儀後数回、戦没者慰霊や囲碁のクルーズに参加し、生活に変化をつけて気分転換を計っています。
今一つ私なりの心掛けとして明朗な気持ちを何時でも持つということです。やがて訪れる最期などはどこ吹く風,全く念頭にない風をよそおうことです。子供達に「俺が死んだらどうする」等とは絶対に口外しないよう意識しています。海軍で「斃れて後已む」という言葉を教えられました。斃れるまでは明るくさりげなく生きていたいというのが今の私の思いです。
思わぬ長文になり恐縮です。同窓生諸君のご自愛と共に、友情を大切に、ご家族を大事にすること、職業を通じて世の為人の為になることを念じています。
幸代子と私(光風2002より)
3年1組担任●都築一郎
妻幸代子は肺癌のため家族全員懸命の看護にかかわらず平成13年8月15日不歸の客となりました。享年72才で今年(編者註・平成13年)5月金婚式でしたが思いも及びませんでした。生前のご厚誼に深く感謝申し上げると共に、彼女の生涯を苦楽を共にした夫としてご縁のあった方にお知らせしたくこの文章を書かせていただきます。
6人兄弟の長女であった彼女の父は戦前戦中大阪の住友金属工業の工員付属中学に勤務し晩年は校長先生であったと聞いています。四天王寺駅近くの住吉区に生れ育ち、後に箕面に転居しました。従って大阪生れの大阪育ち結婚後も仲々大阪風のアクセントが抜けませんでした。住吉区の常盤小学校から大谷女学校、ついで大谷女専を卒業し、一家が豊橋市野依町に帰郷したため、昭和二十四年時習館高校高豊分校に家庭科教諭として勤めていました。
戦中戦後の思い出として聞いているのは戦時中の大阪での食糧難衣料難の他に空襲警報が発令され、女専に登校中だったので警報解除まで此処にいようと級友で言っているのに一人の友人が「どうしても帰る。」と言って帰宅し、自宅の防空壕で直撃によって一家全滅の悲運に会ったこと、戦後大阪巡幸の昭和天皇を見て「真実だまされた。」と思ったそうで彼女の思想変革の原点だったように思います。私は戦時中海軍兵学校七十五期生徒で終戦卒業、国学院大学史学科を卒えて昭和24年父の郷里豊橋に来て豊城中学翌年時習館高校社会科教諭になりました。時習館では分校の先生も時に本校の職員会議に参加するので彼女を見て合性というのでしょうか、とても可愛くチャーミングで知性的な女性と思いました。弟も本校生で優秀な生徒でしたから私に過ぎた人と思いながら結婚するならこの人しかないと思い、親類を介して結婚前提の交際を申し込みました。ところが10日程たっても返事がありません。たまたま分校の学校祭で本校の先生もどうぞとのことで、小泉首相ではないけれど特攻兵器で突っ込むよりましと意を決して直接対決、体当たり精神で申し込みました。彼女は「どうして私を」と聞きますので言い憎いことは英語でと咄嵯の知恵で「ファーストインプレッションです。」と答えました。彼女は黙っていましたがあと食堂でライスカレーを山盛りにして持ってきてくれたので必勝を確信しました。後で聞くと彼女は「早くご返事を。」というのに両親は「待たせる方がご馳走だ。」と意識して返事を遅らせていたそうで大人はずる賢いものだと思いました。昭和26年相思相愛で結婚、式当日花嫁衣装の彼女が式場で笑顔で迎えてくれたのを昨日のことのように思い出します。兵学校在学中練習航海で戦艦大和を見た時と退職記念のインド旅行でタージマハール廟を上空から見たときの3つが私の人生の最大感激のシーンです。当時は職場での恋愛結婚は珍しく噂話になり随分冷やかされもしたものです。後に「美女を得るのは勇者のみ。」という英語の諺を知りましたが彼女と結婚できたのは私の蛮勇によるものと思っています。以来異性を知らず結婚した二人は信頼を裏切ったことは全く無く今日に至りましたし結婚を後悔する気もありません。すべて運命なのでしょう。
結婚後無頓着な私の身の廻りの世話をよくしてくれましたし、同居していた私の伯父伯母、父、姉、甥姪、いとこに至るまで私の親類を大事にしてくれました。周囲によく気配りしてくれたと思います。恋女房で世話女房でしたから私はすべてを彼女に頼り切っていました。長女を出産すると育児に専念したいので退職したいと言い反対すれば夫の沽券にかかわると思い賛成しただけですが時習館の先輩の先生から「君は偉い。」と誉められました。結果論になりますが子供達が順調に育ったのは退職して育児に専念した賜物と思います。家庭の主婦になって主婦会町内会に参加し会計を担当して当時の町内会長さんにとても感謝されたこともありました。三人の子供の進学にも成功し、上二人は時習館末女は一群の豊橋南に合格したし、夫々有名大学に入ることが出来ました。当時私は国府高校に転勤していましたが、同僚から「子供さんは奥さんに似たんだ。」と言われ、「人から振り込んでもらった女房じゃない。白分でつもった女房だ。」と言い返した記憶があります。長男の大学受験地は岡山ですが受験日に帰宅すると「明日は数学で勝負だから岡山に激励に行く。」とのメモがあり、彼女の念力が合格に結びついたのでしょう。
進学も終わってほっとした時豊川学園から非常勤講師を依頼され、その後五〜六校の非常勤やパートタイムの講師を六、七年勤めました。専任の時を含めて1日も欠勤したことはないと言っていました。夫の私にも耳の痛いことでした。授業の下調べもよくしていましたし、生徒が私語すると「ここはレジャーセンターではありません。学び舎です。」と英語と雅語をまぜて注意するので牛徒は思わず授業に引きつけられたそうです。叱り方にも気をつける良い先生でした。勤務先のある校長先生は「都築先生がせっかく良く生徒を躾けてくれたのにパート明けの専任の先生がすぐ駄目にしてしまう。」と愚痴られた由も伝聞しています。
2人の娘も良縁を得て立派な伴侶を持ち孫も五人生まれました。
相続した土地の資産運用についても様々な苦労をかけました。大阪生まれの大阪育ちの特性を生かし常に適切な対応をしてくれ、私には到底出来ない仕事でした。彼女の病気もこの苦労が原因であったかと危倶しています。
又人間関係を大事にする人でした。私の兵学校同期会の行事にも時に参加して私をフォローしてくれました。もう20年前になりますが75期全国総会で一号時代の分隊監事(担任)であった高令の武次教官に2人でご挨拶したところ彼女に「都築生徒をよろしく頼む」と丁重に頭を下げて言われました。当時老教師であった私は生徒と言われてびっくりしましたし、又、2人の社会的能力の高低を恫眼に見抜かれことに恥じ入りました。帝国海軍の部下思いの気風の」一端に触れた思いもしましたし、私は生徒をこんなに可愛がったかと反省した次第です。
又大阪の小学枝、大谷女専の同窓会には毎年必ず喜んで参加していました。5人の孫を可愛がりご馳走したり物を買い与えるのが大好きで孫達はおしゃれで気前の良いお婆ちゃんの印象を持っていると思います。孫達が「お婆ちゃんの美人コンクールがあればきっと一等よ。」と言うと、「賞金はみんなプレゼントするからね。」と冗談を言っていたのを懐かしく思い出します。彼女は戦前の良妻賢母主義教育の優等生で現代に適応した素晴らしい女性だったと思います。結婚相手にちょっとだけミスしただけでしょうか。
私は彼女も退職してから多少のゆとりができ、共通の話題のある永谷様ご夫妻と親しくおつきあいをさせていただきました。外国旅行のクルーズを楽しんだり、国内もあちこちまわりましたし、大晦日から今年の元旦にかけて2泊3日の三谷温泉旅行が最後になってしまいました。せめてもう十年生きていてくれたらと思うのは老の繰事なのでしょうか。彼女の闘病の日々が四ヶ月余に亘り結果も予期せざるを得ない状況でしたので、永谷様のご尽力で旧宅を碁席にして賃貸することにしました。残年は碁を囲んで送る体制を整えましたし、洗濯機やレンジの使い方も覚えました。食事や掃除は介護保険のヘルパーに依頼し、庭の除草もシルバーサービスに頼んでいます。忍びよる老化には誰も抵抗できぬものの当分生きて行くことはできそうです。長男も一緒に暮らしていますから独居老人というわけではありません。時は移り人は替わります。諾行無常の言葉の意味が身に染みてくるようになりました。
最後に彼女に捧げる和歌三首
〇黒髪のままに先逝く君哀し若く華やぎ美しき君
〇君逝きて何楽しまむ老の坂共に過せし日々を偲ばむ
〇耳遠く忘れ激しき吾をおき辿る黄泉路はせつなかるらむ