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3年1組 山 本  浩 二 
 「もしもし。山本尚志君のお父さんですか。東部中学校の〇〇です。実は・・・」
 その日、職場を訪れた最近3人目の子供の父親となった5歳程年下の友人と、「まだタバコ吸っとるう、余裕あるだねえ」、「山ちゃんももう一人位作っとかにゃあ、一人じゃあなにがあるか分からんに」、「家は1人で充分、1人を大事に育てるだで」などと、ひとしきり子供談義に花を咲かせての帰り路、豊川駅前のロータリーを門前に向かって左折した途端道路渋滞である。そこは路上駐車の多い場所だ。また馬鹿が変な止め方してやがるな、迷惑なこった。位に思ったのだが、どうも違うらしい。何かあったのかな。渋滞を抜ければきっと判るだろう。ところが、15分ほどかかって抜けても何も判らない。一体何だったのだろう、そう思いながら家の直ぐ近くまで帰った時、携帯が鳴った。
 「・・・尚志君が踏み切りで事故にあったようです。学校にも今連絡があったばかりで詳しい事は何も判りません。判り次第また連絡します」運転しながら聞く話ではない。車を路端に止めて電話の主の声を聞いていると、その横を妻の車がすりぬけていった。
 私が、渋滞につかまってイライラしていた時、妻も同じ渋滞の中で私より10台位前にいた。彼女は先行の車の何台かが踏み切りの手前で左折するので、その方がきっと早いのだろうと思って同じように左折した。そして、しばらく走った所で救急車を取り囲む人だかりを見た。大きな事故があったらしい。さっきの渋滞はこのためだったのね。そう思いながら、結局私より遅くなり、自宅直前で電話中の私を追い越したのだった。
 「おーい、早く乗れ。尚志が踏み切りで事故ったらしい。急げ」促されて乗り込んできた彼女の狼狽ぶりは異常であった。「何取り乱しとるだ。まだ何もわかっとらんだで。踏み切りの入り口で車と接触したぐらいだらあ。兎に角踏み切りに行ってみるで」、尚志に限ってまさかの事があるはずはない、そう自分に言い聞かせながら事故現場へ着いてみると、そこは何事もなかったかのようである。ガラスの破片一つ落ちていない。「ほうら見ろ。通学路の踏み切りはここしかないんだ。大したことはない」、そう妻には言ってみたもののあまりにも何もなさすぎる、と再び携帯が鳴った。「尚志君は救急車で運ばれたそうです。豊川の市民病院です」。
 市民病院に着くと、待合席に担任の先生の姿があった。挨拶もそこそこに具合を聞いてみるが来たばかりで何も判らないとのこと。ただ、事故現場は私が思っていたところではなかった。学校としては危ないから通ってはいけないとずっと指導していた箇所で、今年も夏休みを前にその旨を徹底するつもりであったが、尚志たち1年生にはまだ知らせてなかったという。その踏み切りは、警報機も遮断機もなく過去2人の人命を奪っている、いわば殺人踏み切りである。私の頭はいよいよ混乱した。あの尚志が通学路でない路を通って、そのうえ電車が近づいてくるのに気づかず線路に侵入し、電車にはねられたのである。あの慎重な子が、臆病といってもいいくらいに慎重だった子が一体何故そんなことに。
 「ご両親の方ですか?先生がお話になりますので、お入りください」、入ってみると30前後の若い先生であった。「いろいろ手を尽くしましたが残念です。病院に着いたときにはもう。おそらく救急車に乗せられた時点で・・・」、最悪の結果であった。結局、私達夫婦は、朝送り出したきり、一言も言葉を交わすことが出来なかった。悔しい。哀しい。不可解。不安。怒り。焦燥。色んな感情が頭の中を駈け巡った。そして、次第にそれらの感情を押しのけて、尚志はもう自分で自分の名誉を守ることは出来ないんだ、お前がしっかりしなきゃ、この状況では尚志が笑い者になってしまう、ただ悲しみに沈んでばかりいる訳にはいかないぞ、そんな気持ちが強くなっていった。
 案の定である。警察も学校関係者も皆事故当時の目撃者はいないと言っているのに、やれ「お菓子を買い食いしながら踏み切りを渡っていたから」とか「後ろにいた女の子に気をとられていたから」あるいは「ヘッドフォンステレオを聞いていたから」だのという噂が耳に入って来た。勿論全て間違っている。その日、いつも一緒に帰っていた友達が他の子と校舎を出て直ぐの角で話し込んでいるのを、先に帰ってしまったと勘違いし、急いで追いかけたらしい。そして、問題の踏み切りにさしかかったのであるが、その時間は運悪く特急の通過時間であった。飯田線の場合は、普通電車より特急電車の方が静かなのである。そして、同級生の言によれば、これから近づく音と通過した音が反対に聞こえる場合があるらしい。さらに、事故現場の先60メートル程でカーブしており、電車そのものは視認出来ない。それやこれやで、隣の踏み切りの警報機が鳴っていたのは充分聞こえたけれど、電車は既に通過してしまったと思い込んでしまったのであろう。
新聞によれば、事故当時特急伊那路4号は時速84キロで走行していたという。とすると、特急の運転士がカーブをぬけて尚志を見つけてから衝突まではわずか2.6秒足らずである。尚志が特急に気づいてから衝突までの時間はもう少し短いだろう。残念ながら、尚志にはその短い時間内に最適の判断を下し、危機を回避するだけの能力がなかった。ただ、現象としてはそうだろうと思うが、例えその場は難を逃れたとしても、結局はどこかで落命したのではないか。そんな気がするし、またそう思わなければ諦めもつかない。全ては運命によって律せられていたのだろう。
卒業15周年の同窓会当時の私は、結婚はしていたけれどまだ子供には恵まれず、周りの話をまぶしく聞いていた。3年前の同期会の折には、15周年の翌年に授かった児の父になっていた。そして卒業30周年の今、15年前に逆戻りである。しかしながら、次の40周年で皆と会う時は再び人の親となっていたいと思う。このことを同窓生の皆様に約束するとともに、記念誌にふさわしいとはいえないうえに拙い文章を最後まで読んでいただいたことに謝意を表し、本稿を終えさせていただきます。

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