思い出すままに
石川 耕春

皆さんお元気ですか。国府高校で私が担当した学年の人達が卒業してから丁度30年とかで、卒業生の大須賀君がやってきて、「光風」に何か書くようにと依頼されました。物を書くのは大変不得意ですが、記念の年でもありますので、思い出すままに一言述べさせていただきます。
赤軍派による「よど号」乗っ取り事件の余韻が残っている昭和45年春、25回生の入学と時を同じくして、私も知多の半田高校から転勤してきて、国府高校にお世話になりました。
当時は学生運動も表面やや下火になりつつありましたが、左翼活動は尖鋭化し、過激な行動が時折突発的に現れて世間を騒がせておりました。昭和47年には連合赤軍派が南軽井沢にある河合楽器山荘に人質をとって立てこもり、10日間も抵抗を見せたいわゆる浅間山荘事件も記憶に残っております。しかし世相は確実に落ち着きつつあり、経済的にも活気を呈し、その後バブルの崩壊を見るまでの日本の高度成長の息吹を感じる時代であったといえましょう。
私にとって国府高校は東三河では最初の勤務校で(実はこれが最後になりましたが)少し落ち着かない気持ちを抱きながら校門をくぐったのを今でも思い出します。しかし今振り返ってみると、わずか3年間ではありましたが、楽しい想い出の残る充実した時を過ごすことできました。
まずは生徒との出会い、最初に驚いたのは東三河にありながら思いの外岡崎など西三河から通っている生徒も多く、通学域が広域にわたっていたことでした。思えば当時高校の数も今と比べればずっと少なかったわけですからある程度自然なことではありましたが、先生や先輩たちから聞き及んだ国府高校の魅力がそこに顕在していたことが主因であったのでしょう。集まってくる生徒たちは一言でいえば善良、あわてずじっくり物事に取り組むといえば少々ほめ過ぎでしょうか。時折羽目を外して生徒指導部や担任を困らせる生徒もでますが、良識の範囲を大きく逸脱する行動などは記憶にありません。
しかしその鷹揚とした雰囲気も、学習面から見ると我々をやきもきさせたことも事実です。如何に意欲を盛り上げるか、その手段について職員会議で議論しても決め手の見つからないこともしばしばありました。そんな中、一つの試みをしたことを思い出します。当時から数年後に始まる教育過程改訂の中で、「ベクトルと行列」が導入されることが決まり、それに向けて自分独自の指導過程を作り、生徒を募集して研究授業を行なおうとしました。その案を授業中に展開することは許されませんので、早朝の授業前に行うことで始めたところ、数十名の生徒が応募し熱心に聞いてくれました。確か2年目のことだったと思います。直接の授業にもまた入試にも生かされる内容でもないのに、2,3ヶ月にもわたる講義に熱心に耳を傾けてくれた生徒の姿を見たとき、国府高校の生徒の前向きな姿勢と、隠れたバイタリティーを感じたものです。
次いでは職場でのこと、自分も当時はまだ30台の終わり頃、自由に振る舞って周囲の人達にご迷惑をおかけしたことも多々ありますが、先輩の先生方からは親切なご指導を賜り、同僚の人達とは余暇を利用して旅行を楽しんだり、当時はやりのボーリングに興じたり、釣りに出かけたり・・・。しかしこの私でさえすでに70歳、お世話になった人達の中には、もうお会いできなくなった方々もお見えになることでしょう。この場をお借りして当時のお礼を申し上げたく思います。
卒業生、特に25回生前後のみなさん、その後如何お過ごしでしょうか。何人かの人達のことは今でも時折耳に入ってきますが、大部分の人達はまったく状況がわかりません。しかし、今はまさに社会の中堅、それぞれの場でご苦労を重ねながらもご活躍のことと思います。私もまだ講師として地元の高校で毎日教壇に立ってがんばっています。元気なうちにお会いできる場があればと念じています。最後になりましたが国府高校の発展と皆さんのご健勝ご活躍を祈りつつ筆をおきます。

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