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イタリア研究会inイタリア<覚え書き>
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平田ドラキチ Capri Firenze Milano Napoli Roma
Siena Venezia Verona
雑感1
鳥居・高田・小澤 ローマ興亡史 紀行雑感 旅あれこれ1 旅あれこれ2 スキポール アレーナ ピエタ像 ダビデ像
イタリア紀行 No.1:('06.10.24談話室投稿/ドラキチこと平田邦夫/より)

◎ 出発まで
かねてよりイタリアには特に興味を感じていた。仕事の関係で断片的な知識ではどうしても納得できないところやこの目で観て見たいところもあり、どうしてもと考えていたがなかなかその機会がなかった。こんなことでは一生行けない、またいつかは結局どこへもいけない、もう時間がないと考え、幸い健康状況も良好なので、いつものメンバーに声をかけたら、鳥居さんがすぐ意志を表明してくれた。その他の友人も行きたそうであったが家庭の状況などで残念、それでは二人だけでも行くことを決意し準備をしていた。8月中旬になって高田さん宅を訪問した時「イタリア」はどうなったと尋ねられ、鳥居さんと行く旨伝えたところ、「外国は行きたくない」と言っていた彼がスイス旅行の経験からか参加の意志を表明、すぐ日程調整し、(これはかなり強引に、しかも奥様に相談することもなく)、もう一人誘おうと言うことで小沢さんに強引にお願いした。少し考えたいと言うことで一日待ったところ快諾してくれ、イタリア語が出来る人の参加で、俄然心強くなった。すぐ旅行社に連絡、その後高田邸でCDによる研修会、さらに木曾三川公園で参加四人の2度目の研修会を行った。

9月には壱岐の船旅もあり、何人かに声をかけたが偶数人が集らず、また突然なことでもあったので次回(来年春―イタリア穴場の旅)に回ってもらった。・・・小沢さん大変・・・と言うことで四人旅となり、秋晴れのセントレアから成田経由で旅立った。 この間足腰の訓練は怠らなかった。

次回はなぜイタリアなのかを載せます
イタリア紀行 No.2:('06.10.24談話室投稿/ドラキチ/より)

◎ イタリアの魅力
世界で行きたい国を一つ・・・といわれれば迷わずイタリアと答える。なぜそんなに魅力が・・・
私たちがどこかに旅行する場合そこにどんな魅力があるかが決め手となる、一つは自然が創り出した風景、もう一つは人間が自然環境に働きかけて、人間の力で作り上げた社会的風景、文化・文明-歴史その両方があるのがイタリアだ。自然環境では北にアルプス、南に地中海ブルー(カプリ島)、しかし今回の旅で期待したのはローマ、古代ローマの帝国の首都として、中世にはカトリックの総本山バチカン市国―サンピエトロ大聖堂・文芸復興(ルネッサンス)の発祥地フィレンツェ(フローレンス=英語)、そして水の都ベネチア(ベニス=英語)である。

◎ ローマの魅力
古代ローマはなぜ栄えたか。イタリアは地図で見ると地中海に突き出した半島で地中海周辺の豊かな産物を独占的に支配するのに最も適した位置にあることがわかる。今流に言えば植民地的支配、その中心がローマであった。帝国はさらに北へ発展、現在のパリやロンドン・マドリッドなどヨーロッパの主な都市はローマ人が植民地支配のため築いた。この頃活躍した人物カエサル(ジュリアス・シーザー)やクレオパトラがこの地に立っていた。
中世は自然科学の面から言うと暗黒の時代と言われるがあのサンピエトロ大聖堂を見ると圧倒される。この前に立てば神への畏敬を感じずにはいられない。どうしてあんなに大きな建造物が・・・キリスト教はどんな魅力を持っていたのかなど考えさせる。そのプランナーがあのミケランジェロである。
観光スポットとしては、コロッセオなどを含むフォロ・ロマーノ(ローマの広場)・「ローマの休日」で有名になったスペイン広場やトレビの泉など歴史が混然一体となって見事に共存している。
そんなローマがどうして滅びたのかが気になるが・・・拡げすぎたことと人物不在ではないかな     長くて御免
 
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イタリア紀行 No.3:('06.11.1 談話室投稿/ドラキチ/より)

← フィレンツェ地図 (下記より選択できます)
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◎ フィレンツェ(フローレンス)の魅力
ルネサンス(文芸復興)の発祥地、花の都フィレンツェ、メディチ家という大富豪が3代に亘り商業・銀行業で得た強大な財力をバックにフィレンツェ共和国が築かれ、華々しいルネサンス文化が花開く、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ビンチ、ブルネレスキらの作品が町の至る所で目にすることが出来る・・・と観光案内書に紹介される町。  この時代はかつての古代ギリシアのような都市国家で、統一した国家はまだ存在していなかった。

文芸復興の意味は再生の意味で「13世紀末から15世紀末にかけてイタリアに起り、ついで全ヨーロッパに波及した芸術上および思想上の革新運動。現世の肯定、個性の重視、感性の解放を主眼とすると共にギリシャ・ローマの古典の復興を契機として単に文学芸術に限らず広く文化の諸領域に清新な機運を引き起こし(人文主義)、神中心の中世文化から人間中心の近代文化の転換の端緒をなした」・・・広辞苑より

日本で言えば室町時代のことである。この流れは中世のキリスト教支配の終焉であり、宗教改革を経て、人間の心の解放、イギリスの清教徒革命、名誉革命をへて人類史上最大の出来事フランス革命(1789)へ引き継がれ、フランス人権宣言=人間が生まれながらに自由で平等だという原理(ルソー)が登場する。その源をフィレンツェにみることができる。・・・宗教からの開放、封建領主からの解放、自由や平等を勝ち得た市民階級が自由な発想を通じていろいろな発明発見が行われ、自然科学や社会科学に発展、産業革命、現代へつながる。
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イタリア紀行 No.4:('06.11.2 談話室投稿/ドラキチ/より)

◎ ミラノ(平野の中の町の意)の魅力
イタリア北部の中心地、経済・商業・メディアの中枢であり、世界のトレンドをリードする * ミラノファッションを発信する都市。13C~15Cビスコンティ家やスフォルツァ家が権力を握った時代が政治や文化の最盛期、* ドゥオモ(キリスト教大聖堂)やスフォルツェスコ城・・・今回旅行の最初の訪問地・・・などの文化遺産や歴史的建造物はこの時代のもの。有名なレオナルド・ダ・ビンチもこの城で活躍。

資料*モンテナポレオーネ通りには女性たちの目を輝かせる世界のブランド店が並んでいる。Prada本店・Gucci・Vuitton など  同行の女性陣は目の色が変わっていた。

* ルネッサンス時代のイタリアはミラノ公国・ベネチア共和国・ジェノバ共和国・フィレンツェ共和国・シエナ共和国・サンマリノ共和国・ローマ教皇領・ナポリ王国などに分れていて、それぞれが国家を形成していた。シエナとフィレンツェは最も接近しており、ライバルで常に牽制しあっていた。

それぞれの国にその国のシンボルとも言うべきキリスト教会(ドゥオモ=キリスト教大聖堂)を建造し、力を誇示していた。しかしローマだけは別格でキリスト教の大本山(サンピエトロ大聖堂)で、ドゥオモとは言わない。それぞれの国には現在もその名を残す人々が活躍していた。ミラノにはダ・ビンチ(諸芸家=建築家・画家・その他発明家など)、フィレンツェにはブルネレスキ(建築家)・ボッティチェリ(画家)マキャヴェリ(君主論)、ローマではミケランジェロ(建築家・彫刻家・画家など)・ラファエロなど
 
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イタリア紀行 No.5:('06.11.3 談話室投稿/ドラキチ/より)

◎ ベネチア(ベニスorヴェニス)の魅力
ベネチアはアドリア海に浮かぶ水の都、マルコ・ポーロ、ベニスの商人、ゴンドラが揺れる運河の風景(地球温暖化でどうなる)、ベネチアグラスなどで良く知られている。

5C頃北方より侵略を受け避難場所として潟湖(ラグーン)に建設、823年聖マルコをベネチアの守護神として宗教的独立。13Cベネチアの商人マルコ・ポーロが世界一周旅行を成し遂げ15Cベネチア共和国として繁栄の頂点を極め、ルネッサンス期には芸術活動も活発。1797年にナポレオンの侵入により10世紀にわたる伝統ある政体を廃し、イタリアに編入された。

観光地-サンマルコ寺院・サンマルコ広場・ドゥカーレ宮殿・ためいき橋など、ゴンドラ遊覧

*イタリアの歴史とイタリア人(民族)の歴史とは異なる。
一般にヨーロッパの歴史は興亡を繰り返し、イタリアの歴史とかギリシアの歴史と言ってもそれぞれの民族の歴史とは違う。ギリシアの場合かつてソクラテスやプラトン・アリストテレスのDNAを持つ人は一人もいないと言える。バルカン半島は常に侵略に対象となり攻防を繰り返してきた。そのたびに力のない国民は逃げ出し、他の民族が侵入してくる。そんなことを繰り返してきたのが陸続きのヨーロッパの歴史である。ローマもしかり、古代ローマの血を受け継いではいない。

日本でもこの秋訪れた壱岐は2回の蒙古の来襲を受け、島民は島から逃げ出すか皆殺しにあった。その後また別の人が島に渡り・・・を繰り返してきた。何度も繰り返せば全く異なった民族が住んでいると言うことになる。日本はそんな侵略を受けたことがないので少し理解しがたい面がある。
 
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イタリア紀行 No.6:('06.11.5 談話室投稿/ドラキチ/より)

◎ シエナの魅力

イタリア中部トスカーナ州、三つの丘の上に広がる、商工都市とし発展、お隣のフィレンツェとのライバル関係の中で発展、豊かな農業生産力を持ち、北部の都市国家とローマとの交通の要衝にあり発展、商人と銀行家が町を支えてきた。小さな町だがフィレンツェとの闘いに奇跡的に勝ったことがある(モンタベルティの戦1260)

この町で有名なのはカンポ広場で、世界でも最も美しい広場と言われ、すり鉢状に傾斜した扇型の広場で周囲に中世の建造物が並んでいる。またこの広場では「パリオ」という荒馬競馬が行われることは特に有名である。この広場で特性のウインナーコーヒを注文したがゆっくり味わう時間がなかったのが残念であった。この広場は最高
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イタリア紀行 No.7:('06.11.7 談話室投稿/ドラキチ/より)

◎ ベローナの魅力
日本ではマイナーに属する観光地、しかしよく見るとなかなかの都市でローマのコロッセオを少し小さくしたような「アレーナ」(円形劇場)がある。同行の小澤さんがかつてこの劇場で演奏会の指揮をとったことがある由緒あるところ。古代ローマ BC1世紀頃につくられた。毎年夏になるとオペラが上演されるとか。
嘘か真かはともかくシェイクスピア原作のロミオとジュリエットの舞台となった建物が観光名所になり売り出し中、ジュリエットの銅像があり、右胸に触ると幸せになれるという言い伝えから右胸だけがぴかぴかに光っている。勿論我々もと思ったが時間がなかったので断念  幸せになれないかも。 シニョーリ広場にはダンテの像がある。今城壁や建造物の修復工事が進んでいる。そのうち人気が出ると思われる。

(編者注:小生は日本地区合唱団のリハーサル指揮者を務めましたが、本番指揮者はR・マゼールでした/小澤)
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イタリア紀行 No.8:('06.11.9 談話室投稿/ドラキチ/より)

◎ ナポリの魅力
 オ・ソレ・ミオ、帰れソレントへ、サンタ・ルチアなどカンツォーネ(イタリア語で歌の意、イタリア民謡-ナポリ民謡)のふるさと。輝く太陽と地中海ブルーの風光明媚な土地・温暖な気候・陽気なイタリア人を代表する町。「ナポリを見てから死ね」=日本では「日光を見ずして結構と言うなかれ」と似た表現はぴったり。陸地から眺めても海から眺めても素晴らしい。
 こんな素晴らしいところは常に周りの国の影響を受け、侵略の対象となる。そしてその都度いろいろな民族の血が混じることになる。そのようなことをくり返してきたナポリに人たちは自分たちのルーツがどこかなど気にしなくなり、また穏やかな気候は陽気な最もイタリアらしいイタリア人を生み出してきた。

 カプリ島はナポリ湾に浮かぶ島の一つである。レモンが特産で「レモン島」とも呼ばれる。
 青の洞窟は特に有名で洞窟の入り口は波が引いたときに海面に顔を出す。碧の輝きに神秘的な美しさを見せる。手漕ぎの船で定員6名で頭を低くして洞窟に入っていく。内側に入ると外からは予想できない数十メートルの広大な空間が広がる。誰でも一度は訪れたいところである。
 島から見るナポリ湾、ヴェスヴィオ活火山(AD78年爆発ポンペイを埋め尽くす-いつ噴火してもおかしくない)、ソレント半島の景観は天気も良く、生涯忘れられない光景の一つである。ナポリは見たけどまだ死ぬ気はない。もう少し長生きしたい。

魅力編 おわり
 
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イタリア雑感 No.1('06.11.11 談話室投稿/ドラキチ/より)

◎ 東京―アムステルダムは最短距離である
   いつも見慣れている地図では直線には見えないが、地球は丸いので地球儀で見ると東京→シベリア上空→スウェーデン→デンマーク→オランダのコースが最短距離になり、燃料の節約となる。ただし領空侵犯の問題があるので正常な国の付き合いがある場合に限る。かつて冷戦時代にはソ連上空が通れなかったのでアンカレジ経由でヨーロッパへ飛んでいた。
現在一般にヨーロッパへはオランダ・スキポール空港もしくはドイツ・フランクフルト経由が多い。

◎ 道路と地下鉄と駐車場
  イタリアはどこの街へ行っても歴史のある町ばかりで遺跡も多い。道路を広げるのも、地下鉄を掘るにもすぐ遺跡に出会う。駐車場も確保しにくいので道路に駐車する(公認)→道路が狭くなる。→車は概して小型車となる。車社会の時代では実にやっかいな町であると言える

◎ 宗教画の意味
  大きな町にはドゥオモ(キリスト教大聖堂)がある。その理由はかつてこの国は都市国家として発展したので都市のシンボルとしてそれぞれ大聖堂を建てた。キリスト教の精神を浸透させるには神父のみが修行する。そしてバイブルの精神を修得する。民衆は貧しく、また文字を読めない。イエスの教えを説くのが神父の役割で、人々は毎週日曜日に教会へ行き、ありがたい説教を受ける。その教えを解りやすくのするために描かれたのが宗教画である。そんな訳で神父のステータスが高く、信頼が厚かった。しかしグーテンベルグの印刷機の発明(15C中頃)はバイブルの印刷が可能になり裕福な人達はバイブルが簡単に手に入るようになり、権力者が都合の良いように解釈して来たバイブルの精神が広く一般に知られるようになり、「免罪符」は批判されることになる。そして宗教改革(16C初頃)につながることになる。
イタリア雑感 No.2('06.11.12 談話室投稿/ドラキチ/より)

← サン・ピエトロ大聖堂

キリスト教(愛と平和の宗教)


 西暦ゼロ年(その後の研究で生誕は前4年ごろと言うことがわかった)、イエスは今のイスラエルにユダヤ人(ユダヤ教徒)として生まれた。当時この地域はローマの支配下にあり、人々はローマとユダヤ教の二重支配を受けて苦しんでいた。苦しければ苦しいほどメシアの登場を期待する。そんなときに救世主として生まれてきた。そしてイエスは人々の苦しみを救うために救済活動を始めた。
イエスの教えは魂の救済とユダヤ教の形骸化した状態の正常化、そして神への愛と隣人愛を説く(愛と平和の宗教)。この教えは当時支配の立場にあったローマ人にも影響を与え。統治者ローマ人がその後ローマに帰り伝えることとなる。しかし異郷の宗教としてなかなか日の目を見ることはなかった。むしろ虐待を受けながら地下にもぐることもあったが、ついに313年ミラノの勅令により公認された。以後ローマがキリスト教の大本山として幾多の危機を乗り越え、ヨーロッパ全体に布教して行った。

参考
キリスト教
(ローマ帝国の分裂→)
A ローマ・カトリック
  (宗教改革→)
A カトリック
(大本山サンピエトロ大聖堂
ラテン民族(伊・仏・スペイン・南米)
C プロテスタント
a ルター派 ゲルマン民族(英・米・独など)
b カルビン派
c 英国教会
B コンスタンティノーブル・ギリシャ正教-ロシア正教会 スラブ民族(露・東欧の国々)
イタリア雑感 No.3('06.11.15 談話室投稿/ドラキチ/より)

◎イタリアの学校

  イタリアでの移動は全てバス移動であった。幸い天気も良く,車窓の眺めは眠っているにはもったいない景色であった。日本でバス移動すればどこへ行っても学校は見られる。南側に運動場があり、その後ろに校舎がある。しかしこの国ではそのような光景は見られなかった。そのわけを訪ねると・・・小澤さん曰く・・・学校は街中の普通の住宅地の中にあり、グランドなどはない、一般に学校(主要教科のみ)は午前中で終わり、親が子供たちの送り迎えする。学校の役割は学業の修得であり、いわゆる生活指導は行わない。その役割は家庭であるということが徹底している。午後は自分の好きなこと、スポーツや芸術あるいは趣味の時間として使われる・・・ということであった。主要科目だけでいわゆる特殊科目に相当する学習は外部が行うと言うことか。日本は何もかも学校に押し付けている。いじめ問題・未履修問題・教員不適格問題などの原因はひょっとすると、学校に全てを任す仕組みにあるかも。

◎イタリアの料理

 小泉元首相が「イタリアへの移住を考えている」、と言う週刊誌の記事を見た。理由はオペラと料理と女が良いとあった。オペラはともかく料理は日本人には合うのではないかと思う。前菜にいろいろなパスタ料理、かなりの量である。そしてメイン料理、魚や肉料理が出て、最後にデザートとなる-(定番)。お酒は勿論ワイン、今回は小澤さんがそれぞれの土地の銘柄を選んでくれた。とても美味しかった。パスタ料理は麺類の好きな日本人には合うのではないか。ただし飲料水は買うことになるが、うがい程度は水道水でも大丈夫である。水が合わず苦労をした話をよく聞くが我々グループにはそんな人はいなかった。
これでイタリア料理は解ったなどととても言えないが・・・
イタリア雑感 No.4('06.11.17 談話室投稿/ドラキチ/より)

◎イタリアの気候 地中海型気候

イタリアの気候は地中海型気候である。その特色といえば、夏は砂漠並みの暑さで雨降らず、カラカラ天気が続く、直射日光を受ける所では相当な暑さであるが、日陰に入れば空気も乾燥しているので心地よい(イタリア旅行へは夏は避けたほうが良い―旅行代金も高い-これは需要と供給の関係、春・秋は日本とほぼ同じ)。冬は日本の冬並みに雨が降る-小麦栽培は可能
一般に樹木(建築材)は年間を通しての降水量がないと育たない。農業面から見ると夏は大変厳しく、草は枯れてしまう、作物の栽培が限定され特殊な樹木農業が行われるが、地中に根を広く張る樹木、具体的にはブドウ、オリーブ、オレンジ、イチジクなどである―このような農業は広い土地がいるので小規模農家では採算が取れなく大地主制となる。特に南部で極端な貧富の差が生まれる。北部も原則的には同じ気候でるが、大河ポー川がアルプスの雪解け水を集めて流れ、流域に多様な農業(米も栽培)が可能となる。-ロンバルジア平原-
私たちは北のミラノから南のナポリまで、全てバス*[アウトストラーダ(高速道路)]を利用した。ミラノ郊外を出るとブドウ畑が広がっていた。ブドウ栽培は日本のように吊り棚式ではなく、一本1m位の添え木に巻きつかせる用に栽培される。果物としてよりワインの材料になるので見た目は気にしない。更に南に下がるとオリーブ畑が広がる。オリーブはパスタ料理に欠かせない、オリーブオイルの原料である。ブドウ畑やオリーブ畑の合間に牧草地が広がる。

*特にローマとナポリを結ぶアウトストラーダは「太陽道路」と呼ばれている。南北格差解消のための高速道路-流通を活発にして南部の発展を促す道路 日本の道路公団との比較がなされた。優等生道路
イタリア雑感 No.5('06.11.19 談話室投稿/ドラキチ/より)

◎ 石の文化
ヨーロッパが石の文化といわれるのは建築材としての檜や杉・松などの樹木が育たない-夏雨が降らないと上記のような樹木は育たない-大きな建築物は無理である。幸いこの地では良質な大理石が産出した。大理石は固くて細工は大変で高度な技術が必要になる。大工より石工が尊重される。
その後レンガを使っての建築も進み、古代ローマよりあったといわれるセメント製作(今よりずっと強いセメント)の利用で石の文化が発展することになる。
日本は木の文化といわれるが、大建造物には樹木の限界がある、と同時に耐久性に限界がある。そして石の建物は風雪に強く、木の建物は雨の多い日本では維持管理が大変である。

○資料  雨が降らない理由は、北アフリカから吹き出す乾燥した風と地中海の水温との関係、どちらも高温なので温度差が少なく、降水の素となる雲を作らない。冬の日本と比較すると。シベリア高気圧から吹き出す、北西の季節風は低温で乾燥(-30℃以上)しているが日本海にやって来て、比較的高温の対馬暖流(+10℃)と出会うことになる、温度差が大きいので猛烈な雲が発生する。(冬のお風呂は蒸気でけぶる)その雲が脊梁山脈で上昇し、冷やされ雪を降らせる(日本海の幅が最も広い新潟県に積雪が多くなる-北海道や東北地方ではない)。即ち大気の温度と海水温の温度の差が雲の発生と関係する。
イタリア雑感 No.6('06.11.22 談話室投稿/ドラキチ/より)

◎ なぜ日本が豊かになったのか?  (戦後もっとも豊かになった国)
 どこへ行っても日本人の観光客がいた。 これはイタリアだけではないと言われる。
 どうしてこんなに豊かになったか?先の大戦で工業生産力は壊滅的打撃を受けた、資源のない国日本が、と誰しもが考える。石油ショックの時は「もうだめかな」と感じた人も多かった。しかし日本人はそれらのマイナス要因をことごとくクリアーし、しかもそれをステップにして更なる発展を遂げてきた。勤勉な国民性はともかく、どこにそんなエネルギーというか底力があったのか?またどんな政策があったのか、
 その理由を司馬遼太郎氏は「世界の先進国で最も経済格差が少ない国になった」といっていたことを思い出す。税金制度もあるが大金持ちも少ない代わりに明日の食事に困る人も少ない社会が出来上がった。*

*功を奏した政策?
 GHQが押し付けた?農地解放、-自作農政策と食糧管理制度の成果、白いご飯を腹一杯食べることを最も優先した政策、米の安定供給、政府が高値で買い上げる政策である。このことで農業人口40%あった農村が豊かになる、購買力がつく、一方高度経済成長政策は都市労働者の賃金を毎年春闘で賃上げ、それに見合う米価が決まる。その繰り返し・・・安定した農村の誕生、・・・格差の少ない社会が誕生した。なお、高度経済成長を支えたエネルギー革命(石炭→石油)を推進した池田勇人総理の決断は多少の混乱はあったが素晴らしい政策であった。
 この間農村の子弟は高度教育を受け農業を継がなくなり(現在農業人口5%程度)、高齢化が進む・・・自給率40%を切ることになる。

 百聞は一見にしかず・・・イタリア旅行でいろいろ学ぶことができた。しかしそんなに簡単にイタリアが解る筈はない。まだまだ不十分であることに変わりはない。残された時間はあまり多くはない。さて次はどこへ行こうか?
 しかし、こうして豊かになった日本も小泉内閣が進めたアメリカ型新自由主義の影響か?今また格差が拡がりつつある。さて次の政策は?
 次の世代が私たちのように海外旅行(研修)を楽しむことができるだろうか?

イタリア雑感   おわり
私のローマ興亡史雑感('06.10.27談話室投稿/鳥居利充/より)

27BC~BC476(西ローマ帝国滅亡)の約500年地中海文明の一端に触れることができました。BC100~200年五賢帝時代に栄えた文明の遺跡、コロッセウム、公衆浴場など本、写真で単体に見ているが現代都市ローマと同居し融和している姿に感激する。

コロッセウムの地下室からセリで上げられたライオンが放たれて人間と格闘、見物する5万の民衆、興奮度は札幌ドーム以上か?建物は大理石中心の石積建物どれも堅固で突破出来そうもない。塀を乗り越えるには赤穂浪士なみの装備が必要だ。日本は都市も家庭も無防備な平和な国なのがよく分かります。

平和、娯楽のまん延したローマにゲルマン民族が南下してきた時は戦闘意欲なく自ら滅びたローマ。国も自治体も会社も内部崩壊から亡んでゆく。外敵がきたからではない。エドワード.ギボンのローマ興亡史の名言「外敵来たって滅びたるか、否ローマ自ら滅びたり」が浮かんでくる。小田島ミジンコ先生の小さな体であの迫力ある講義も思い出した。
私の紀行雑感

← ローマ~ナポリ間を結ぶ高速道は「太陽道路」(Autostrada del sole)と呼ばれている

1.イタリア人気質と労働観
観光スポットは別として個人商店をみてもいつもシャッターがおりている。聞いてみると午後は3時からそれまでは昼休みとか。日5時間ぐらいの労働時間だろう。バスの運転手が4日ほど強行程を時間厳守で運行した。日本と変わりないと感心していたところ「私は今超過勤務で警察の検問で見つかったら罰則を受けるので交代する」 イタリアの警察は労働時間まで監視するのか?運転手のお別れのあいさつ「人生を楽しめよ」一言がしゃれている。GDPより人生楽しむほうが優先のようだ。

2.ナポリ、カプリ島
世界で最も美しい港のひとつナポリ。山を背景した美しさは神戸と規模が違う。海も汚染されてない。しかし町中をみてみると結構よごれている。「神はこんなにも美しいものを創ってしまったのでそこにイタリア人を住まわせた」 外人のジョウクもきついが的をえていた。(鳥居)
他国にない配慮(スキポール空港)('06.10.21談話室投稿/小澤武夫/より)
 狭い経験ですが、3国のインターネット事情をお知らせします。

オランダ・アムステルダム・スキポール空港:3ユーロ(約450円)で15分使用可。さすが各国の人の集まるところ、(ヨーロッパ主要空港・都市で唯一)日本語文字も表示した。
しかし、入力法が不明のため、ローマ字で投稿。

イタリア:ホテルに使用できるコンピュータ見あたらず。ローマでやっと見つかる。3ユーロで30分使用可。ただし、遅い電話回線のため、写真1枚表示に大変な時間を要す。日本語は勿論表示せず(スキポール空港が例外)。(2ヶ月前の経験では、スペイン/ポルトガルとも、低速回線が多いがほとんどのホテル・ロビーでのInternet使用が可能であった)

成田空港:100円で10分使用可。天下の成田が、ローマと同じ遅い回線で、写真表示にイライラ。日本語画面表示は当然したが、日本語入力法が時間内に見つからず、日本からなのにローマ字にて談話室へ投稿。

三者に共通の不都合:アドレスを入力しても、接続しないサイトが多い。談話室にたどり着くまでに、様々な手を使い、5分以上(ローマでは15分?)掛け、やっと談話室に接続した次第。特に「チルダ」入力は、キーボードが各種で何とも不明。
特に成田の不都合・・・経過時間表示がなく、30秒前に突然警告が出るが、100円を追加しないと、ただ動かなくなるだけで、作成した原稿の投稿も出来ない。実質30秒短い9分30秒の使用しかできない。これが日本の国際空港のインターネットへの認識とは、少々恥ずかしい。
 [写真集へ] / 
Verona の Arena

← 1990年8月6日、開演前2ドラの鳴った直後、演奏者側から見た超満員の客席。

小生の指揮していた合唱団が、他国(北欧・中部ヨーロッパ諸国・オーストラリア・米国等22ヶ国)合唱団と合同でここで演奏した時のもの。広島被爆45周年祈念演奏会として、国連の後援、ロリン・マゼール指揮、モスクワフィルハーモニー管弦楽団、パバロッティ独唱等々の豪華メンバーで、ヴェルディ「レクイエム」を2日間連続演奏した。故ダイアナ妃も客席に居た演奏会で、イタリア全土はもちろん、ヨーロッパ各国にもTV生放映され、思い出深い演奏会であった。

時あたかも、4日前の8月2日、イラクがクエートに侵攻した湾岸戦争の勃発に、ヨーロッパは騒然としていた。世界各地から集まっていた合唱団員は、広島被爆祈念演奏会が世界平和祈念演奏会であることを生身で体験させられた。

リハーサルは10日間(日本だけは遠方のため8日間に特別免除された)、毎日夜9時より、夜中1時か2時まで、この会場で行われた。(因みにヨーロッパにおける夜の演奏会開演は、一般に9時からが普通である。) 我々は、パドバに宿を取り、毎日バスで1時間以上掛け、練習に通った。従ってホテルに帰るのは深夜3時を過ぎることも珍しくなかった。

帰国を1週間ほど延ばし、僕はレンタカーを借り(合唱団員が3人ほど同乗していた)懐かしい中南部イタリアの旅をした。驚いたことに、行く先々のホテルで、我々がアレーナで歌っていた、と言うと、フロントからメイドさんまで、それを見ていたと言って大歓迎された。新聞の扱いも実に大きい。日本でセ・パ両リーグの優勝が決まった時のスポーツ紙並みの扱いだ。つまり、音楽・絵画・建築等と日常生活との関係は、羨ましいほど日本とは違っていた。(小澤)
 
[写真集「ヴェローナ」へ] / 
ミケランジェロの「ピエタ像」

ミケランジェロは生涯に3体のピエタの像を残している。写真は、ローマのサン・ピエトロ寺院にある「ピエタ像」である。

30年前に見た時は、随分近くに寄って、直に見られたものだ。しかし、マリアの鼻が金槌で折られるという事件以来、防弾ガラスで隔てられ、遠くからしか見られなくなったのは残念だ。

他の2体は未完の像だが、ミラノ・スフォルツェスコ城内の美術館と、フィレンツェ・ドゥオーモ最奥左に存在するが、余り知られていないようだ。

pietà (ピエタ)とは、イタリア語で「哀しみ」を意味する。十字架に掛けられ殺された息子・キリストを、母マリアが抱く姿、これを「ピエタ」と呼び、人間の哀しみの極限を象徴するものである。

かつて、敬虔なイタリア人クリスチャンから「マリアは、殺した相手へ報復の念も抱かず、泣き崩れもせず、じっと哀しみに耐えている、ここに教えがある」と言うような意味のことを聞いたことが想い出される。

「ピエタ」のテーマは、多くの画家・彫刻家・音楽家等によって作品に具象化されている。(小澤) 
[写真集「サン・ピエトロ寺院/内部」へ] / 
ミケランジェロの「ダヴィデ像

ダヴィデは、素手で外敵から街を守ったトスカーナの英雄である。左手から背に回した手ぬぐいのようなものに、石を組み合わせ武器にしたと言う。

メディチ家に納品当日、「鼻が大きすぎる」という注文に応じ、梯子を登ったミケランジェロは、手に隠し持った大理石屑を落とし、無修正に成功したとか。

下から見上げた時のバランスを考慮に入れたミケランジェロ18歳の時の傑作。写真は初めて設置された場所に建つコピー。(小澤) 
[写真集「フィレンツェ」へ] / 
イタリアの旅 あれこれ No.1:('06.11.07、散歩道投稿/高田孝一/より)

(← 出発前の一服/セントレアにて)

出発前の準備

 812日の午後、平田さんが突然家を訪れてくれた。いろいろ話をしているうちに、鳥居さんとイタリアに行くことになったが、一緒に行かないかと誘いを受けた。それまで、弟夫妻がイタリアへ行った時の経験談や次男夫妻のイタリアでの苦労談を聞いていたので、海外旅行、とくに、イタリアは行きたくないと思っていた。大きな要因はふたつ。ひとつは弟の奥さんがイタリア料理を殆ど食べることができず苦労したこと。もうひとつは次男がトイレで苦労したことであった。
 しかし、友達から誘われてそれくらいの理由で断るのもいけないと思い、家の法事の日程を変えて一緒に出掛けることにした。3人ではいろいろ都合も悪いので、心あたりの友に電話してみたが、都合がつく友がいなかった。その時、「最後の切り札がいる」と平田さんが小澤さんを誘うことを思いついてくれた。すぐ、小澤さんに電話をかけたが、少し、考えさせてくれとのことであった。翌日、メールで、「行くことに決めた」との連絡を受け、メンバー4人が決まった。
 1週間後の8月20日に小生宅で、イタリア旅行の申込書を記入した。さらに、充分、勉強して行こうということで、平田さん、鳥居さんと3人で木曽三川公園へ行き、小澤さんと落ち合って、食事をしながら、小澤先生のイタリア旅行の注意事項を教えてもらった。そして、10月5日、平田さん、鳥居さんの3人で旅行用品の買い物をした。これだけ、準備を重ねたらもう充分と思って帰宅したが、その時買った安物のポーチが気にいらないと妻にクレームをつけられてしまった。「一緒に旅に行くのではないから、好きにしなさい」と言われたが、気になるので、国府のユニーへ買い物に行き、小ぶりのポーチを買ってきた。値段は小生の安物買いとしては少し高いものであったが妻は納得してくれて、買い物はすべて終わった。最後に、薬を準備した。医者にもらった血液の戻りをよくする薬の他、痛み止め、頭痛薬、腸の薬、皮膚の薬、傷ヘルパー、目薬等を準備した。

 旅に出かける二日前から、スーツケースに荷物を入れ始めた。7月にスイスへ行った時は、妻が荷物づくりをやってくれたが、今回は自分でやらねばならず、少し戸惑ったが、何んとかつめ終り重さを量ったところ、約18キログラムであった。スイスのときは、数キロオーバーしていたので、何をカットすべきか苦労したが、今回は、スーツケースの重量ではそれほど苦労しなかった。理由のひとつは、持込用のナップザックを大きなものに変え、スーツケースが紛失した時の準備として、当座必要な下着類他もナップザックに詰めたことと、水を一本に絞ったことである。
(スイスの時は、何本もの水を詰め込もうとして、最後は一本にした苦い経験をした。)
1013日の朝、パスポート、腹巻にしまいこんだ現金、カード、セントレアでユーロに変える現金や当日支払いの諸税・燃油サーチャージ(36,910円)等を確認した上で、迎えのタクシーに乗り込んだ。

空の旅
 
平田さんと鳥居さんは、豊川稲荷方面から国府駅へぎりぎりの時間で到着、名鉄国府駅6時2分発のセントレア行きで出発し、無事、セントレアへ着き、小澤さんとメンバー4人がそろった。空港で少し待ち時間があり、軽い朝食を済ませる人もいたが、小生はコーヒーを飲んだ。今回の空の便は、セントレアから成田、そして、成田からアムステルダム、そして、アムステルダムからミラノへという実に不便な便であったが、ツアーが極めて安かったこともあり、みんな、我慢し納得していた。成田で時間つぶしをしながら食事を済ませ、アムステルダムのスキポール空港へと飛び立った。スキポール空港は小澤さんが指摘したように、とても親切な空港で、待ち時間約3時間を快適に過ごせるゆったりした椅子がたくさん用意されていた。スイスへ行った時、フランスのシャルル・ドゴール空港で乗り継いだ時と大違いであった。(ドゴール空港には、ベンチさえ無く、休む場所が無くて本当に困った。)ミラノの空港に夜10時過ぎに着いたが、時差が7時間あるため、朝5時30分過ぎに家を出てから、とても長い一日であった。ミラノのホテルについて、安心からかどっと疲れを感じた。
イタリアの旅 あれこれ No.2:('06.11.07、散歩道投稿/高田/より)

 今回のツアーは、総勢28名に添乗員(安達さん)がついた29名という大所帯であった。夫婦が半数を占め、女性の4人づれ、女性のふたりづれが2組、男性のふたりづれが1組に我々4人組であった。みんないい人で、新婚旅行のふた夫婦が時々、集合時間に遅れたくらいであった。旅を重ねるうちに、小澤さんのイタリア語の能力とイタリアのことに詳しいことがツアー客の知るところとなり、我々グループは少しいい気持で旅をすることが出来た。
 出掛ける前に心配していたイタリアの食事は、日本人ツアー客がよく行く店であったのか、とくに食べられない料理は一度も出なかった。食事の度に飲み物を聞かれ、最初はビールにしようかワインにしようか迷ったが、「郷に入れば郷に従え」でずっとワインで通した。お蔭で、最後には、少し、ワインの味に慣れたような気がする。飲み物は小澤さんがすべて頼み、清算してくれたのでこんな楽なことはないととても感謝している。
 次に心配していたトイレは、有料(1ユーロ)のトイレを利用することも多かったが、買い物をする店で利用できたので、とくに、困ることはなかったが、店によっては、トイレの数が少なく、女性陣は少し苦労したようである。スイスでも有料トイレを経験していたので、外国ではトイレも只ではないと思えばそれほど気にすることでもないと感じた。
 イタリアの観光バスの運転手は、鳥居さんが述べていたように、ユーモアもあり、親切であった。バスに水を積んでいて、割安な価格(3本で2ユーロ)で分けてくれたのはとてもありがたかった。
 イタリアで観光する時は、ガイドのお世話になることが法律で決められているとのことで、観光地ごとにいろんなガイドが説明をしてくれたが、まさに「ガイドもいろいろ」であった。観光客を喜ばそうとする気持の表れであろうと思うが、多くのガイドはかなり日本のことを勉強していた。イタリア観光においても、日本人観光客がお得意様である証しでもあろう。しかし、何処から何処までが冗談で、何処が本当なのかわからないようなガイドには少し困った。大半のガイドが日本語を話した。ローマでは日本人のガイド(現地滞在30年以上の)が説明してくれたが、他のどのガイドよりわかりやすく、親しみも感じた。何処へ行っても、日本人というだけで安心することを今回も体験した。
 旅の途中、フィレンツエの観光をしていた時、夜になって急激に冷えてきた。その時は、少し気持ちが緩んでいたのか、ナップザックも持たずに観光していたので、寒さ対策のセーター等を持ち合わせていなかった。我々は、その日、「ピサ観光」へ出掛けたグループとは別行動で自由行動となっていたので、小澤さんの案内で各所見学をした後で、シニョーリア広場で「ピサ観光」へ出掛けたグループが帰ってくるのをじっと待っていた。ジャンパーの襟を立てて寒さに震えていた。翌日、鼻水がたらたらと出だした。鼻をかんでも次から次と出てくる鼻水にはとても困った。出掛ける前、あれだけ、念入りに薬を準備したはずなのに、なんと、風邪薬だけ忘れてきていた。仕方ないので痛み止めを飲んでおいたが、余り効かなかったようだ。鼻を赤くして、「ハクション」を連発していたので、ツアー客のひとりが風邪薬を譲ってくれた。おかげで、2日くらいで鼻水も出なくなり、大事にいたらずよかった。

帰国
 1019日の1045分にホテルをバスで出て、ローマのレオナルド・ダ・ヴインチ空港へ向かった。それまで、ずっと晴天に恵まれていたが、バスの中で少し小雨が降っていた。今回の旅ではお天気に恵まれ、また、いい仲間と旅が出来たことが最高であった。
 行きと同じように、アムステルダムのスキポール空港で乗り換え、更に、成田で乗り継ぎ、セントレアへ1945分に到着した。毎度のことであるが、セントレアで飛行機の車輪が滑走路につくとほっとすると同時に疲れもどっと出てくる。セントレアで小澤さんと別れ、我々3人は、名鉄で帰り、午後11時少し前に我が家へ帰った。
['06.10.29 初掲]