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海中散歩(4)
(ゲンジボタルさんの談話室投稿 2008/08/14 より)
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太平洋戦争
8月15日は63回目の『終戦の日』。昨日は名古屋市公会堂へ「あいち平和のための戦争展」をじっくり見てきました。この日を記憶として思い出せるのは私たちか、1〜2歳下の年代まででしょう。アブラゼミやクマゼミの鳴き声とともに少年のころが蘇ってきます。艦載機に狙われたこと、豊橋空襲や豊川海軍工廠のこと、豊川(とよがわ)で泳ぎまくったこと、農作業を手伝わされたこと、などなど昨日のことは忘れても鮮明に思い出されます。

話変わりますが、ダイビングは南の海が多く、私は沖縄・南西諸島、グアム、サイパン、パラオ、セブ島周辺によく出かけました。考えてみれば太平洋戦争の激戦地ばかり。5年前(2003年)サイパンの海で沈んだ艦船に出会ったときの衝撃、恐らく一生忘れられない。何時までも船縁らしき鉄塊に手をかけ、眺め続けました。
サイパンの戦いでは民間人を含め、日本人は5万人以上が戦死したと言われています。鳥居さんは詳しいと思いますが、何処から眺めても戦艦、あちこちに大きな大砲が転がり、貝殻が付着、色とりどりの魚が泳いでいました。大きな船がそのまま魚礁となるので、沈潜は絶好のダイビングポイントにもなります。
何と、甲板と思われる鉄板にミスジリュウキュウスズメダイに囲まれるように、枝サンゴの花が咲いていました。後方には砲筒が見えます。戦後60年、条件さえよければこんなに立派なサンゴ礁が育ちます。
ダイビングで最も恐いのは減圧症(潜水病)です。圧力の増大に伴い体内へ窒素が溶け込み、急速に周囲の圧力が低下するような時に気泡化し、いろいろな障害を引き起こす。だから通常は飛行機に乗った日、乗る日はダイビングができないのです。この空白を利用して、近場の観光や散策に出掛けます。この日は日本軍が追い詰められたサンパン南部のバンザイ岬まで足を延ばした。
  赤茶けた機銃戦車の据え置かれバンザイ岬にタクシーはつく
  人々が自決のために飛び降りて断崖の空は澄みてゐたりき
  若人の旅行者多しサイパンの慰霊塔には人影少なく
(以上友人ダイバーの短歌。付け加える言葉はありません。パレットさんやアミーチさんなら、どんな歌を詠んでくれることか)
2度目のパラオ(2005.5.6撮影)。最終日午前中のミーティングで、日本が戦争していたころのものを見たい、と現地IR(インストラクター)に頼んだところ「ダイバーからの希望は余りないけれど」と前置きして出かけたのは無人島巡り。

初めて乗ったカヤック。ウグイスらしき小鳥の鳴き声、真っ青なアオショウビンが飛び交い、何処までも透き通った蒼い海、海面すれすれに浸食されたサンゴ礁で固まった島々はまるで絵葉書のようです。
ところが、カヤックでついた船着場は、戦争中に日本軍がサンゴ礁を積み上げて造った桟橋跡と教えられ、木造の貨物船らしき船が沈んでいました。そこから無人島に上陸、10分ほど歩いて小山を登ると高射砲跡や砲筒があちこちに散乱、数b近くには必ず固いサンゴ礁をくり抜いた防空壕がありました。

周囲のジャングルを眺めながら、60余年前の日本兵隊たち、若者たちはどんな思いで、この異国の地で、アメリカと戦ったのであろうか。あと10年、15年早く生まれていれば自分がこの南の島で・・・想像しても答えは全く出てこない。
今年の2月、三度目のパラオ。セント・ガーディナルというダイビングスポットで偶然見つけたサンゴ礁に包まれたビン。現地IRは「昔、この付近で日本軍の船が多く沈み、積み荷が海面を覆うくらい流れた中のビール瓶だ」と教えてくれました。

注意しながら見ると、あちこちに同じ大きさのビンが転がっていました。突然攻撃を受けたのか、飲み干した空瓶なのか、陣地構築中の陸軍に届けるものなのか、いくら考えても答えは出てこない。何故そんなに関心を持つのか、と若いダイバーたちに訪ねられる時があります。
水中ノートでIRに「ビンの底に何か書いてあるが?」と訪ねると、ボードに「DAINIPPON」と書いてくれました。戦前、こんなビールがあったんでしょうか。どなたか分かりましたら教えて下さい。

 パラオ共和国は人口2万人。案内書には戦前の31年間は日本の統治領で、太平洋戦争の激戦地。日本軍は1万人余が玉砕、米軍も2300人戦死しています。当時、パラオ人を強制疎開させて犠牲者をゼロにしたためか、すごく親日的。あちこちに戦跡が残っています。確かに老人の中には片言の日本語を話し、理解します。サルマタやチチバンドには思わず苦笑しました。
アミーチさん 2008/08/15 8月15日は終戦記念日、ゲンジボタルさん「時を読んでいます」ね。激戦地南の島の海中散歩で「戦争に拘る」「何故そんなに関心を持つのか」と若いダイバーに聞かれても、拘るのが当たり前と考える我々の世代は、反対に「何故関心を持たないのか」と問いたくなる。 戦争を少しでも知っている世代に生まれたことを、(言い回しが可笑しいかもしれませんが・・)私は誇りに想える様になりました。そしてあの悲劇を若者へ伝えていきたいと、自己啓蒙を痛く感じています。 今日は「終戦記念日」サイパンやパラオの海、南の海へ散っていった戦死者を偲び、拙い短歌を作ってみました。現地に立てば、前作のようにリアリティのある歌が詠めるでしょうが・・心象の範囲で失礼します。(花は夏に咲くムクゲ、あの日も泣いていた) 
  鎮魂の祈りが果つる刻(とき)はなく
      パラオの海は蒼く眠れり
  戦艦の紅き傷跡散々と
      南の島へ飛びゆく蛍
(蛍は、ダイバーのゲンジボタルであり、蛍になった多くの英霊にかえて)
(「答えが出ない」といわれるゲンジボタルさんへ返歌、時間差で失礼します)
  「なぜ」と問い答えの出ないサイパンの
      岬の夕日永久(とこしえ)の叫び
“女流画家の描いたサイパン”
名古屋の知人で絵を描いている彼女が、もう何年も前ですがサイパンをテーマに描いた個展をしました。「海を見ていると悲しくて苦しみました」と。展示されている絵は、蒼く蒼く、渦巻くように!沈むように!何か形が浮かび上がるように!そして深い底・・抽象的で理解できませんでした。蒼い海と悲しみは受け止めましたが・・これでは浅い。
彼女曰く「本当にこんな感じで、こうしか描けませんでした。死者の魂が私に語るのです」と。その場に佇む人しか感じとれないものがあるのだと思いました。彼女がダイビングができたら、もっと別な角度でも描いただろうか・・、ゲンジボタルさんの写真を見て、そう思いました。
私の短歌も想像でしかない、一度パラオやサイパン、ガァムやレイテ島を訪ねてみたい。これまで激戦地の島は見たくない・・と私流の反戦感情を悔いています。今朝もレイテ島のことがテレビで報道されていました。戦争は終わりがないこと、「戦争をしないDNAを、しっかり受け継いでいかなければ」と助言者が語っていました。

パレットさん 2008/08/16
土方さん、ダイバーとして海に潜っても、反戦の気持ちを持って足跡を追っている取材、流石といつも感心しております。 戦後63年。戦争も遠くなりましたが、まだまだ南の海の底には、敗戦の足跡がしっかり残っている現状、アミーチさんの言われるように、知ってる世代の者が、きちっと伝えることは大切ですね。
雑誌でノンフィクション作家の上坂冬子と哲学者の鶴見俊輔の戦争体験の対談を読んでいましたら、私達より18歳ぐらい年配の鶴見氏の話の中に、敗戦の昭和20年8月15日の3ヶ月前に日本の上層部は敗戦を覚悟していたとありました。 もし、3ヶ月前に終わっていたら、あの原爆、広島、長崎は落とされていなかった。豊川工廠・・・・・はと思うばかりですが、死者に鞭うつことは出来ないけれど、リーダーの重要性、決断の大切さを言っておられました。
パラオの海の青さいいですね。「パラオの海は蒼く眠れり」のアミーチさんの詩がなにか胸がジーンときますね。ダイバーのゲンジボタルと英霊をだぶらせて冴えています。
我が家は豊川工廠の西門があった所に居を構えております。63年前はこの地でたくさんの若い命が一瞬の内に奪われました。
その地で鷺草が咲きました。
  爽やかに 静かに飛べよ 鷺草よ
      若き命の 御霊清めて
('09.08.24 初掲) 前頁 /  / 次頁